自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1732冊目】渡辺京二『もうひとつのこの世 石牟礼道子の宇宙』

講談社文庫版『苦界浄土』に寄せた長文の解説(これは読んだ覚えがあった)から、石牟礼道子の「成り立ち」、そして初期の作品『西南役伝説』から新作能『不知火』、そして晩年の作『天湖』についての文章までが収められた一冊。

その「編集」を見るだけで、著者がまさに石牟礼道子の「伴走者」であり続けたことがよくわかる。実際、石牟礼の名を世に知らしめた『苦界浄土』は、著者が刊行した「熊本風土記」への連載が元になっているし(その時のタイトルは「海と空のあいだに」というものだった)、その後も、ある時期までは著者が石牟礼道子の原稿を清書していたというし、「水俣病ジャンヌ・ダルク」として全国を飛び回っていた時は、その移動の段取りやマネージメントをやっていた。数十年にわたり晩飯を作りに行っていたともいうから、その関わりようは尋常ではない。

なんだかこう書くと、一方的に著者が石牟礼道子の世話をしていたようだが、しかしそれだけの関わりが生じるには、著者の方でも石牟礼道子という人物に、何か感じるものがあったのだ。本書はいわばその、石牟礼道子という稀有な「語り部」から著者が受け取ったものをあらためて洞察し、振り返り、著者なりの「石牟礼道子論」として集成したものといえる。「石牟礼さんとの出会いは、私の自己の再発見であった。この出会いなしに、物書きとしての私は存在しない」と、著者は本書の「あとがき」で書いている。実際そうだったのだろうと思わせられる。そうであれば、食事を作るくらい何ほどのことはあるまい。

著者は石牟礼文学の特質として、時系列の混然等のユニークな構造に加えて「現にこの世にある世俗的な生活の彼方に、その始原ないし根元をなす隠れた存在の次元があって、その次元から絶えず呼び返されているといったふうに、人間の生のあり方をとらえる感覚」(p.198)を挙げている。この「隠れた次元」こそが、本書のタイトルにもなっている「もうひとつのこの世」であり、別の文章で著者が言う「コスモス」としての世界であろう。

著者は世間一般的な世界把握の仕方を「ワールド的世界」と呼ぶ。しかし、これはあくまで「二次的擬似的な知覚」にすぎない。それに対して、次のような「コスモス的世界」こそが、石牟礼道子が生き、描きつづけた世界なのだと著者は主張する。

「…ところが私たちはこういう意味の世界には実際に住んでいないし、それを本当の意味で経験することもないのです。私たちが住んで経験している世界は、水平に拡がる並列的な多様性ではなく、生きている自己を中心として構成される同心円的な統合です。大地に立つ自分をとりまき、自分の心音として鼓動する万象、つまり家族・交友といった限られた人びと、きわめく星辰、そのような具体的で統合された森羅万象の世界を私たちは自分の生きる世界と感受しているのです」(p.49)


だから石牟礼道子の文学について「庶民文学」とか、ましてや「抵抗の文学」などとして社会運動の延長上に捉えるのは、とんでもない誤読であることになる。石牟礼文学はむしろ、近代以前の「文字以前の世界」を、その内部から描くところに真骨頂があるのであり、その意味で日本の近代文学には類例のない(唯一、宮沢賢治との類似を著者は挙げている)文学形態、思想形態なのだ。

むしろ著者は石牟礼の文学に中世の説教節との類似性、あるいは万葉以来の古来から続く日本文学の命脈をこそ見い出し、さらにはフォークナーや、あるいはマルケス、ドノソなどラテンアメリカ文学との類似性を指摘している。

しかも石牟礼道子自身はフォークナーやラテンアメリカ文学など読んだ形跡がなく、それどころか日本の近代文学さえほとんど読んだことがないという。著者はさすがにそれはどうかと思い、鴎外全集をプレゼントしたらしいが、結局読まれることはなかったらしい。また、石牟礼道子の読書法は「つまみ読み」で、自分の栄養になりそうなところだけをピンポイントで読むのだそうだ。通読したのは「彼女の尊敬する高群逸枝さんと白川静さんの本くらいじゃないでしょうか」(p.104)と書かれており、なんだか唸ってしまった。なるほど、高群逸枝白川静、ですか。うーむ。

こうして著者が浮かび上がらせていくのは、石牟礼道子という作家が日本近現代文学の中でいかに異例性、稀有性を持っているか、ということだ。それがかえって世界文学の最前線に通じてくるというのも面白い。池澤夏樹が自選の世界文学全集に日本の作家で唯一、石牟礼道子『苦界浄土』を入れたのも、そのあたりに目を付けたということなのだろうか。

異例の作家にはそれを読み解き、紹介する人が必要だ。そして、石牟礼道子には、渡辺京二というすばらしいサポーターがいたのであった。最近だいぶ遠ざかっていたが、久しぶりに石牟礼道子を読みたくなってきた。