自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1701冊目】赤坂憲雄『柳田国男を読む』

柳田国男を読む (ちくま学芸文庫)

柳田国男を読む (ちくま学芸文庫)

柳田国男8冊目。全部で10冊の予定なので、本書を入れてあと3冊だ。

さて、今さらだが、柳田国男といえば、日本の民俗学を創始した人物とされている。だが、それは最初から「民俗学」であったわけではない。柳田国男が、あるいは折口信夫南方熊楠が徒手空拳で挑んだ知の領域が、のちに「民俗学」と名付けられただけなのだ。

「はじめに民俗学ありき、ではない。民俗学はたんなる結果である」(p.15)


著者は柳田の仕事について、こう語る。そして「民俗学」という枠組みの外側から、あらためて柳田国男の評価を試みたのが本書である。そこで見えてきたのは、「一国民俗学」の形成にあたって柳田が切り捨ててきたもの、「遺棄」してきたものの大きさであり、豊かさだった。

たとえば、それは漂泊の民であった。巫女や毛坊主であり、サンカとも呼ばれる「山人」たちであった。のちの柳田が重視した「常民」の外側にいる人々だ。彼らは境界の民であった。漂泊を常としていたが、定住を志向し、その時にすでに定住していた人々から「村はずれの河原や湿地のような農耕に適さぬ空閑地」をあてがわれ、そして、差別の対象となった。

これが現在にまで至る被差別民のルーツであると柳田は考えた。だが一方で、定住に至る以前は、漂泊の民は宗教性や呪術性を認められ、ある種畏敬の対象として扱われていた。特に彼らは「亡魂の鎮めと死穢の浄め」を託され、それが漂泊の民にとっては生計の手段にもなっていたのだ。

柳田の思想が「民俗学」に転ずる重要な著作が『雪国の春』である、と著者は指摘する。なぜか。ここにおいて柳田は「列島の南から北まで、根源をひとしくする民族=文化によって覆い尽くすことが可能だという確信を手に入れた」(p.191)からだ。ここでは、日本民族の外側にいる「異族」との、つまりは山人やアイヌとの雑種や交配は考慮されない。

境界のソトへと向けられた目は、この本において内側に向け直されたのだ。「山人やアイヌの祀り棄てこそが、「民俗学」の誕生の根本的な契機であった」(p.192)という著者の指摘は痛烈だ。

『雪国の春』は以前読んでいたが、そんな位置づけにある一冊とはまったく知らなかった。しかもこの本と『海南小記』が対をなすもので、そこに「稲に対する偏愛」「稲を選んだ日本人への確信」があったとは、気付きようもないことであった。昭和三年、奇しくも昭和天皇による稲の祭り=「大嘗祭」が挙行された年の刊行だったのも、後から考えるとなんとも意味深であった。

本書は一見、柳田国男に対してちょっと手厳しいようにみえる。特に「民俗学」の立ちあがりと共に柳田が捨ててきたものに対しては、たいへん厳しい批判がなされている。しかし、一方で著者は、他の者による柳田批判に対しては敢然と反論してみせる。柳田のテクストを誰よりも繰り返し読み、認識を深めてきた自負と、そして柳田への底知れない「愛」が、そこには強烈に滲み出ているように思われる。

そして、著者のメインフィールドである「東北学」が、まさしく柳田の読みから発し、常に柳田を参照し続けてきた営みであったことも、本書からは知ることができる。まさしく柳田国男こそは著者のルーツであり、原点なのだ。あるいは著者の「東北学」を中心とした学問の展開こそが、柳田国男の振り棄ててきたものの承継であり、著者流の柳田への「仁義」なのかもしれない。