【1700冊目】鶴見太郎『柳田国男入門』
- 作者: 鶴見太郎
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2008/09/06
- メディア: 単行本
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本書は柳田国男の思想と学問を、その周縁から論じる一冊だ。「入門」とあるが、内容的にはむしろ応用・発展に近いので、ある程度の基礎知識がないと読みづらいかもしれない。
柳田の活動期間が戦前から戦中、戦後に完全にまたがっていることが、本書を読んで再認識できた。戦争まっただなかの時期にもいろんな研究活動や会合を行っており、どうやら思想的にもほとんど一貫していたとらしい。
ちなみに柳田は、自分では「保守」と称していたらしいが、その意味合いはちょっと慎重に考える必要がある。
この点については、1950年に中島健蔵、桑原武夫、天野貞祐らと行った座談会の内容が紹介されており、理解の助けになりそうだ。「進歩・保守・反動」と題したこの座談会の冒頭、中島や桑原が進歩、自分は保守、天野は反動と述べた柳田に対して、天野が「自分も保守だ」と反論したところ、柳田は「教育勅語をありがたがっているようでは、どうみても「反動」だ」と一蹴したというのである。
しかもこの点については、すでに1935年の時点で、柳田は「教育勅語の中には(愛国はあっても)「愛郷土」がない」と主張しており、このあたりも戦前から戦後にかけての思想の一貫がうかがえる。柳田にとっての保守とは、まずは郷土を愛するところに始まっているようなのだ。それにしても「教育勅語は反動」とは、よく言ったものである。
似たようなエピソードは、国語教育をめぐる主張にもみられる。戦争のただ中にあった1943年、柳田は「標準語」のあり方について論じているのだが、ここでも国が一方的に標準語を示すのではなく「生活習慣に基づいて日本語を使う側から定義される」ものとして標準語を位置づけるべきと主張した。また、その前に書かれた「国語の将来」という論考でも、地域の伝統や習慣に根差した言葉を理解して使っていくべきとしている。
「本来ならば「本然の理法」がそれぞれの家、村の習俗と連動しながらしっかりと本人の経験に支えられている限り、ひとつひとつの言葉ははっきりと認識され、それが新しく接する言葉であっても当人は十分それを理解して使い得た。しかし、その環境が崩壊しつつあるとすれば、日本人は突如新しさをまとって現れた言葉に対し、無防備にこれに呼応することになるというのが柳田の偽らざる見通しであった」(p.118)
こうした指摘がどの程度当たっているのかわからないが、戦後にみられる外来語の大量流入とそれに対する「無防備な呼応」の状況をみていると、まさにおっしゃるとおり、としか言いようがない。それはともかく、戦前から国家や言語の背後に「郷土」「村落」を見続けた柳田の思想は、戦後もほとんどそのままに展開され、敗戦による急激な価値観の変化の中で、ある種のよりどころにもなったのであった。
冒頭にも書いたとおり、本書は「入門」というにはちょっと応用的であるように思われる。話題もやや散発的で、柳田の周囲の人々の活動を通して、やや遠いところから柳田の思想や行動を見ていくようなところがを感じた。ただ、決して悪い本ではないので、ある程度柳田国男の本を読んだ上で、視点を発展させるために読むことを勧めたい。