自治体職員の読書ノート

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【1695冊目】柳田国男『遠野物語』

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川ソフィア文庫)

柳田国男2冊目。やはりこの本ははずせない。

基本中の基本の一冊だが、実は、ちゃんと読んだのは初めて。知っているつもりだったが、読んでみたら意外なことがいっぱい見つかった。

まず驚いたのは、その短さ。今回読んだ角川ソフィア文庫版では、本編はせいぜい60ページ弱。その後で書かれた「遠野物語拾遺」を加えて、どうにか一冊になっている。さらにこの本、初版はわずか350部だったという。ところがこの一冊から、日本の民俗学は始まったのだ。

内容も斬新だ。何が斬新かって、とにかく遠野地方で聞き取られたいろいろな話が、ほとんど順不同で並んでいるだけなのだ。解説も解釈もいっさいなし。しかも書かれているのは昔話、逸話、怪談など、まあおそらく、話している側としてはたわいもない話ばかり。それも、いろんな人たちに話を聞きまわったのかと思っていたら、なんと「遠野の人佐々木鏡石君」一人からの聞き取りなのだ。ちなみにこの佐々木鏡石氏、村の古老のような人なのかと思ったらせいぜい24、5歳の若者だった。

おそらく現代の民俗学だったら、大学の卒業論文すら通るまい。だから炯眼というべきは、言っちゃなんだか田舎の若造の語る、ザシキワラシやら天狗やら河童やらが出てくる地元の「お話」を、そのままに記録し、刊行したことなのだと思う。「初版序文」で、柳田は「今昔物語」のようなかつての説話集と本書を比べ、こんなふうに書いている。

「要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもつてするも立派なる存在理由ありと信ず」(p.7)


面白いのは、本書の初版刊行当時の評価である。ちなみになんと初版解説は折口信夫が寄せているのだが、そこではこう書かれている。

「…この豊けさと共に、心は澄みわたるものの声を聞く。それは早池峰おろしの微風に乗るそよめきのようでもある。ざしきわらし・おしらさまから、猿のふったち・おいぬのふったちに到るまで、幽かにささやき合っているのであろう。わが国の「心」と「土」とに、最も即したこの学問の長者のために、喜びかわす響きに違いない」(p.217)

さすがの評である。他には田山花袋島崎藤村泉鏡花といった面々も初版の寄贈を受けて評をなしているが、中ではやはり泉鏡花が、もっともこの本に共鳴、共振したようだ。次のようなくだりなど、さすがに目の付けどころが違う。

「又此の物語を読みつゝ感ずる処は其の奇と、ものの妖なるのみにあらず。其の土地の光景、風俗、草木の色などを不言の間に得る事なり」(p.223)


そうなのだ。本書は単なるお化け話、奇妙な話というだけではない。物珍しい化け物やら事件の間に、遠野の風景があり、習俗があり、生活が見えてくるのが、実は本書の味わいなのだ。柳田はあくまでそれを当時の「現在の事実」としてまとめたわけだが、それが今となってみると、当時の人々の観念世界を活き活きと描写したこの上もない資料になっているのである。

考えてみれば柳田が本書を刊行したのは明治43年。東京などではだいぶ近代化、西洋化が進んだが、地方ではまだまだ江戸時代以来の考え方や生活の仕方が残っていた頃だったろう。当時、バリバリの中央官僚として地方の農政に携わっていた柳田だからこそ見えてくるもの、感じられるものが、そこにはいろいろとあったのではなかろうか。民俗学以前といえば、民俗学以前の一冊。しかしそれゆえの「生の」魅力が、本書には満ちているのである。