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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1687冊目】重松清『十字架』

福祉・教育・医療

十字架 (講談社文庫)

十字架 (講談社文庫)

教育・学校本15冊目。引き続きいじめ関連。

いじめを描いた小説なのだが、異色なのは、いじめの被害者が自殺した「後」のことを延々と綴っている点だ。

いじめを苦に自殺したフジシュンは、4人の名前を遺書に残した。いじめを主導した三島と根本には「ゆるさない」、中川という女の子には「ごめんなさい」、そして「僕」に対しては、「親友になってくれてありがとう」……

死んだフジシュンは中学二年生のままだが、周囲はどんどん年を取る。高校生になり、大学生になり、就職し、結婚し、子ができて……。本書は、その「時間」そのものを描くことに挑戦した小説だ。

自殺した子のことを「一生忘れない」と思っていても、何年も何年も経てば、記憶はだんだん薄れてしまうだろう。しかし「僕」は、フジシュンに名指しされたがゆえに、いつになっても彼の家を訪れ、彼の話を親に聞かせなければならなくなってしまう。実際はそれほど仲が良かったわけではないのに、「親友」として名指しされたために、「僕」はフジシュンを忘れることが許されない。

よくぞこんな小説を書きあげたものだ。さぞハードルは高かったことと思う。

いじめの悲惨さを描くより、いじめ自殺の「後」を何年にもわたって描きつづけるほうが、おそらく数段難しい。遺族のリアクション、級友の雰囲気、そしていじめの「傍観者」でいたための罪悪感と、遺書によって名指しされたがために、忘れることを許されなかったことへの、口に出せない鬱憤。経験していない者にとっては、想像を絶することばかりだ。なぜ重松清はこんな小説を書けたのだろう。

答えは本書の「あとがき」に書かれていた。著者はかつて、中学二年生の男の子をいじめ自殺で亡くした男性に会い、インタビューをしていたのだ。部外者には想像することすらできない胸の裡を、直接聞き出すことができたのだ。そのことが、特にフジシュンの父の圧倒的なリアリティにつながっていたのだった。

著者はその男性に、いじめに加わったり傍観していた生徒を憎んだり恨んだりしていないのか、と尋ねたという。男性は「そういうのは、いまはありません」と言った。「じゃあ、彼らのことを、いまはもう、ゆるしているのですか?」と、続けて著者が聞いたところ、男性は少し間を空けて、こう答えたという。

「いや……それは、ないですね」

著者は、特にこのやり取りを「『十字架』というお話のすべての始まりであり、たどり着くところ」と言っている。確かに言われてみれば、本書はこの2つの答えに尽きている。そこにたどり着くまでのプロセスを、延々と描いているともいえる。しかし言い換えれば、このことを小説として描くために、著者は四百頁近い分量を費やしたのである。

タイトルの「十字架」も意味深だ。これはフジシュンにとっての(そしてこの小説全体にとっての)ある種の救済のイメージでありつつ、同時に「僕」にとっては、重い重い意味が込められている。ジャーナリストの本多さんが「僕」にかけた言葉に、すべてがあらわれている。

本多さんは、ひとを責める言葉には「ナイフの言葉」と「十字架の言葉」がある、と言う。

「十字架の言葉は、背負わなくちゃいけないの。それを背負ったまま、ずうっと歩くの。どんどん重くなってきても、降ろすことなんてできないし、足を止めることもできない。歩いてるかぎり、ってことは、生きてるかぎり、その言葉を背負いつづけなきゃいけないわけ」(p.78-79)


本書は、十字架を背負って人生を歩む「僕」の物語であり、同時に十字架を目指して歩きつづけるフジシュンの父の物語でもある。力作、というのでは足りない。魂のこもった作品だ。著者自身の魂をすべてぶつけて、先ほどの息子さんを亡くした男性と向かい合った、これは文字通り、重松清、渾身の一冊なのだ。