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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1683冊目】パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』

福祉・教育・医療

被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳

教育・学校本11冊目。

ブラジルの教育思想家、パウロ・フレイレの代表作が本書だ。1968年の刊行であり、内容はやや時代がかっている部分もあるが、そのエッセンスは今でも通用する。

本書のメインテーマであり、フレイレ教育論の目標は「人間化(ヒューマニゼーション)」だ。人間化とは、人間が人間であろうとすること、人間としての尊厳を保ち、失われた人間性を回復することをいう。

そして、そのために重要なのは「抑圧者の暴力」からの解放だと著者はいう(この「抑圧者」が具体的に誰なのか、著者はあまり明示していないが、まあだいたい文脈から想定できると思う。特にブラジルはもともと植民地だったということを考えあわせるべきだろう)。なぜなら、抑圧者は被抑圧者を「非人間化」する、つまりは人間を「モノ扱い」すると同時に、抑圧者自身をも非人間化していくからである。

したがって、被抑圧者は単に抑圧者に取って代われば良い、ということにはならない。それでは新たな抑圧者が生まれるだけの話だ。大事なことは、被抑圧者と抑圧者が「共に解放」され、共に人間性を回復すること。そして、ここがポイントなのだが、解放の起点となれるのは、実は被抑圧者だけなのだ。抑圧者はその立場にあることでいろいろなメリットを享受している以上、そこから自らを解放することは至難であるからだ。

「抑圧されている者だけが、自らを自由に解放することによって、抑圧する側をもまた自由にすることができるのである。抑圧する側は、他人も、自分も解放し、自由にすることはできない。
 だからこそ、抑圧されている者が、自らの内なる矛盾に気づき、その矛盾を超えていくことが大変重要なのである。ここを超えていくことにより、新しい人間が誕生する―抑圧する者でも、抑圧される者でもない、真の意味での自由な人間の誕生である」


では、被抑圧者が「自らの内なる矛盾に気づき、その矛盾を超えていく」ためにはどうすればよいのか。ここで出てくるのが「教育」、つまりは本書のタイトルでもある「被抑圧者の教育学」なのである。著者はこうも書いている。

「教育と学習は、「地に呪われたる者」、すなわち被抑圧者、この世のうちひしがれた人たち、そして連帯しようとする者たちのところから始まるのである」


つまり、著者にとっての教育とは、抑圧されている人々が自らを解放し、さらには抑圧する側をも解放し、人間性を回復させるための手段であり、いわば突破口なのだ。当然、その内容は既存の(「抑圧者」が行う)教育とは大きく異なるものになる。

「抑圧者」である為政者が行う教育のありようを、著者は「銀行型教育」と呼ぶ。なぜ銀行型かというと、従来行われているようなこの手の教育は、銀行に預金するように生徒に知識を詰め込んでいくものだからだ。

ここでは教師と生徒は一方的な「教える者−教わる者」の関係であり、生徒は常に無知な存在とされる。ここでは、生徒はいわば「空の容器」のように扱われ、つまりは非人間化されてしまう。教育とは、抑圧者側の知識を一方的に教え込むだけとなり、抑圧−被抑圧のパターンを再生産するに過ぎなくなる。

こうした教育のやり方に対して、著者が提案するのが「問題解決型教育」だ。ここでは一方的な知識の伝授の代わりに、双方向のコミュニケーションが重視される。そこでは、確かに「教師と生徒」はいるものの、両者は対話によって「同じ認識対象をめぐって認識を広げていく」ことになる。それは教育するものとされる者の矛盾を超えていくような教育である。

なんだかわかったようなわからないような説明だが、要するに、問題解決型教育では「対話」が決定的に重要な役割をもっている。しかもそれは「愛、謙虚さ、人間への信頼」を備えた水平的な対話であり、つまりはお互いの人間性を尊重したやり取りであるというのである。

こうした教育では、教師は決して生徒自身を変えようとはしない。むしろ生徒と共に現状への認識を深め、現状を変革していくことを目指していくことになる。これに対して抑圧者の教育は、世界の現状はそのままに、人間をその世界に適応させようとする。

「本当に人間的な教育者や、本来の意味での革命家にとって、活動の対象は共に変革すべき「現状」そのものなのであり、人々自体が変革すべき対象なのではない」


このあたりになってくると、著者の教育論の本当にラディカルな面が見えてくる。たいていの場合、教育とは人間を「変える」ためのものだと思われている。つまりは社会に出た時に必要になる知識を植え付け、現代社会に生徒を適応させるための手段である。だが著者の教育論は、まったく逆なのだ。

著者にとっては、あくまで現状変革のために教育がある。著者の言う問題解決型教育とは、つまりは革命のための、もうちょっとマイルドに言えば、社会変革のための準備なのである。世界を単に「動かしがたい現状」として把握するのではなく、変革可能なものとして認識するのだ。

もちろん、著者自身も自己ツッコミしているように、これはずいぶんとナイーブな態度である。対話によって世界を変革するなんて、よほどの夢想的革命家でなければ言えないだろう。しかし著者は大真面目である。本気で教育を通じてこの世界を変革し、人間性を取り戻すことを夢見ているのだ。

「対話を通じて世界と出会い、変革しようといえば、それはとてもナイーブな態度だとか、主体的な観念論だとかいわれるのだろう。
 しかし、世界の中の人間、世界と共に在る人間ということほど確実で現実的なことは他にはない。人間と人間の関係。そこには抑圧する者と抑圧される者という現実もある。
 本当の意味での変革というのは、人間を非人間的にし、モノとして扱うようなこういう現実を変えていくことである。
 もう一度いうけれども、変革は、この現実をつくり上げ、そこで生きてきた人々によって行われるのではなく、その現実の下で虐げられてきた人たちが、明晰なリーダーの下に行われるものである」


本書が1968年に刊行されたということを、この文章を読んであらためて認識させられる。プラハの春が始まり、ベトナム戦争が泥沼化し、フランスでは5月革命が頂点に達し、キング牧師ケネディが暗殺され、アポロが月に到着し、学生運動が世界中で起こり、カウンター・カルチャーが一世を風靡した年。「ターニング・ポイント」とこの年を呼ぶ人も多い。本書にみられる革命への期待と失望も、こうした情勢と無関係ではないだろう。

ひるがえって現代、革命は少なくとも先進国ではほとんど幻想となった。しかし人間性はグローバリゼーションの中でますます失われ、世界を変革可能なものとして捉えることはますます難しくなっている。しかしだからこそ、あえて対話による教育で世界の変革を目指した本書は読まれるべき一冊であるように感じる。ナイーブな理想を語る人が減った時代だからこそ、こういう本が貴重なのではないだろうか?