自治体職員の読書ノート

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【1678冊目】内田樹『街場の教育論』

街場の教育論

街場の教育論

教育・学校本6冊目は、内田樹。この人の本は面白い。

けっこう勢いまかせのところがあって、論理的にはいささか飛躍のあるところも多い。だが読んでいると、時々ドキッとするような強烈なフレーズがあって、文脈をすっとばしてこちらの目を吸いつける。

多分この人は、本質的には論理より感覚の人なのだと思う。感覚でスパッと本質を切り取ってから、その周囲に論理を組み立てる。その手技が実に巧みで、読ませるのだ。

本書はその内田樹の教育論。ご自身の大学での教授経験が元になっている部分が多く、内容はどちらかというと大学教育メイン。だがその指摘は、初等教育から高等教育まで、どのレベルにも当てはまるものが多い。たぶん小学校の先生が読んでも、いろいろとヒントがもらえるのではないかと思う。

私がいちばん興味深く読んだのは「学びの場というのは本質的に三項関係なのです」(p.143)というくだり。三項関係というのはちょっと分かりにくいが、要するに学びの場(教室)にいるのは「教師」と「生徒」(著者の言い方では「師」と「弟子」)だけではない、ということだ。そこにはその場にいない「師の師」がいるというのである。

どういうことか。ここで著者は孔子の「述べて作らず、信じて古を好む」という言葉を引く。著者によれば、孔子は諸国を回って政治理論を説くにあたって、決して「自分の言葉」として話さなかった。孔子が理想としていたのはかつての名君、周公旦の政治だった。孔子は周公以来の「政治的伝統の継承者」として政治を説いたのだ。著者はここに教育の本質を見る。

「すべての重要な教えは「そのオリジナルはもう消失したが、それを聞き取った記憶は残っているので、それを祖述する」というかたちをとります」(p.144)


このことを、つまりは「自分の師に対する畏敬の念」「それに比べたときの自分の卑小さ」を聴き手に理解させることが教師の唯一の仕事である、と著者は言う。なぜか。それによって教師は「私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在する」ことを信じさせ、ひいては学び手にブレークスルーをもたらすことができるからだ。

なぜなら、そもそもブレークスルーによって突破される「自分の限界」とは、自分自身で決めているものだからだ。それを「自分の限界は他者が決める」というふうに転換したとき、いわば自己リミッターが外れる。

「ブレークスルーとは「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです」(p.156)

「成熟は葛藤を通じて果たされる」というフレーズも意味深だ。大人は人によって言うことが違う。同じ人でも状況によって言うことが違う。著者は「それでいい」否、むしろ「それがいい」という。「教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない」のだそうだ。

ところが成熟してくると、子どもは「大人の言っていることはバラバラにみえるが、実は同じことを言っている」ことに気付く。それは何かというと「成熟しろ」というメッセージ、ただ一つなのだという。それを手を変え品を変え、時には真逆の表現をしながら伝え続けているのが「大人」なのだ。そして著者によれば、この「表層的には違うもののように聞こえるメッセージが実は同一であることが検出されるレベルを探り当てること」が、すなわち成熟ということなのである。

これは言えている。葛藤が起きるのは、要するにまだ「未熟だから」なのである。葛藤が葛藤でなくなるレベルまで思考を深掘りすることでしか、成熟はなしえないのだ。このあたりはちょっとヘーゲルを思わせる。

他にも本書の議論はグローバリズム、日本語論、宗教論など多岐にわたり、しかもそれがすべて教育と関係している。個人的にはキャリア教育に関連して、就職面接の面接官は合否を「面接室に入室して5秒で決める」というのが面白かった。では問題。面接官はたった5秒で、「何を」見ているのでしょう? 答えは本書で、どうぞ。