自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1677冊目】ジョン・デューイ『経験と教育』

経験と教育 (講談社学術文庫)

経験と教育 (講談社学術文庫)

教育・学校本5冊目。

プラグマティズムでも知られるアメリカの思想家、デューイの教育論。教育に特化した内容だが、そこからデューイの思想そのものが透けて見えてくる。

デューイはまず、教育のありかたを大きく二つに分ける。一つは「伝統的教育」、もうひとつは「進歩主義教育」だ。

「伝統的教育」とは、いわばお仕着せの教育だ。生徒たちは一律かつ一方的に、必要とされる知識や道徳、伝統を教え込まれる。著者はこれを「自然の性向を克服し、その代わりに外部からの圧力によって習得された習慣に置き換えられる過程」(p.16)と表現し、一方の進歩主義教育」については「自然的な素質を基礎におくという考え方」(同頁)と説明する。

あ、ちなみにこの短い引用文だけでもお分かりとは思うが、本書は訳文が非常に読みにくい。内容が濃いこともあるが、薄い本なのに読み通すのにずいぶん時間がかかってしまった。

それはともかく、この二種類の教育法のうち、著者が立脚するのは「進歩主義教育」のほうだ。ただし、そのためには教える側が生徒の「自然的な素質」を知るように努める必要がある。教師側が規則づくめで強圧的な姿勢だと、あまりうまくいかない。それだと生徒たちは表向きだけはおとなしく無表情にしているが、裏では教師に舌を出すということにしかならないからだ。抑圧的な管理教育など、デューイに言わせれば下の下ということになろう。

では、進歩主義教育を行うとして、教師は生徒のどこに焦点を当てればよいか。ここでデューイが強調するのが、その生徒の「経験」である。生徒の様々な経験の中から教育的に価値のある経験を識別し、選り分け、成長に向けて育てていかなければならない。

さらにデューイは、経験を「連続性」「相互作用」の二点で評価する。連続性とは、ある経験から次の経験へとつながっていくことであり、相互作用とは、経験がその環境との間で織りなす作用をいう。分かりやすく言えば連続性は「タテ」、相互作用は「ヨコ」なのだ。

経験は、適切な導きによって次なる経験へとつながっていくのであり、それと同時に、環境との間で相互作用を起こし、その人にとっての世界の「見え方」を変えていく。「教えることと学ぶこととは経験の再構成の連続的な過程である」ともデューイは書いている。

デューイによれば、教育とはこうした経験を糸口とするべきなのだ。こうした経験とつながりのない物事を「上から」教え込むだけでは、教育の実りは乏しいものとなるし、人の「自然」(本性、というべきか)にも沿ってはいない。

だから「伝統的教育」には問題が多い、ということになるのだが、しかし進歩主義教育も、適切に実施することは極めて難しいのである。生徒自身の経験を出発点とするやり方は、生徒の自由を前提とするために、一歩間違うとタダの無秩序、放任になってしまうのだ。「教育の理想的な目的は、自制力の創造にある」(p.104)ともデューイは言っている。

特に難しいのは、自由をゆるした時に表面化する衝動や欲望の扱いだ。伝統的教育はこうしたものをおさえつけ、無視してしまうが、それではこうした要素を「行為の原動力」として活用することはできなくなってしまう。デューイはむしろ「教師の仕事は、衝動や欲望が生じるや、それを好機に利用する点を見定めることである」(p.113)と言っている。

だから本書は、考えてみると、教える側からすれば相当にハードルの高いことを書いているともいえる。だが、そうした姿勢なくしては到達できない教育の領域があることは確かであろう。ちなみに「子どもの将来のために」今は我慢させる、管理するという考えについては、デューイはこうも言っている。教育論が人生論でもありうるということが、この言葉を読むとよくわかる。

「われわれはいつでも自分たちが生活しているその時に生きているのであって、ある別の時点で生きているのではない。また、われわれはそれぞれの現時において、それぞれ現在の経験の十分な意味を引き出すことによって、未来において同じことをするための準備をしているのである。このことこそが、長い目で見ると、将来に帰するところの何かになるための唯一の準備にほかならないのである」(p.74-75)