自治体職員の読書ノート

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【1676冊目】佐藤学『学校改革の哲学』

学校改革の哲学

学校改革の哲学

教育・学校本4冊目。教育学者である著者による論考集。

第一部は「学校の哲学」、第二部は「哲学的断章」とタイトリングされているが、いずれもその中で多彩なテーマが扱われている。著者の研究の幅の広さを知るには良い本だが、私のように著者の本をはじめて読む読者としては、あまりにレンジが広すぎて焦点が絞れないという面もある。最初はもっとワンテーマに絞り込んだ本のほうが良かったかも。

学校、教育というカテゴリーに即した論考としては、第2章「学校という装置」における学級論が興味深かった。著者によると、もともと江戸時代の日本の教育では、藩校でも寺子屋でも、自学自習が基本であった。ちなみに、学ぶ内容も子どもによって異なっていたという。

明治になって「学制」が導入された当初も、学級はなかった。あったのは個々人の学びの進度を示す「等級」であったというから、藩校や寺子屋からの過渡期だったのかもしれない。1891年に制定された「学級編制等に関する規則」が、はじめて学級を等級に代わるものとして呈示した。

さらに1900年、等級制を廃し、試験による進級と落第をなくしたことから、学級が「同一年齢の学習集団」となった。著者はこの学級を「国民国家の基礎となる国民教育の要請」に基づくものであり、「国民国家の雛型」であったとする。今に至る「学級王国」の起源である。

さらに著者は、学級を「国体モデル」「家庭モデル」の2つのモデルで捉えている。学級はいわば国家の雛型であると同時に「教師を中心とした家庭」であったのだ。そしてこの2つのモデルは、言うまでもなく、そのまま戦前から戦中にかけての国民国家モデルと二重写しになっている。そこで教師が担っていたのは天皇の役割であった。天皇は国家を総攬する者であり、同時に日本国民の家父長であったからだ。

したがって、著者によれば、近年の学級崩壊などは当然の結果ということになる。なぜなら、学級王国では教師が天皇並みの存在であることを承認され、要請されていなければならないからだ。戦後民主主義教育の中で教師が単なる「労働者」「サラリーマン」になり、また自らもそう認めるようになった以上、こんな学級王国など成り立つワケがないのである。

著者はこうした「学級崩壊」自体は「必然的であり、むしろ好ましい現象」と断じている。むしろ問題は「崩壊が新しい学校と教室の装置の新生を準備していない点にある」と。このようなありようは、これまた、権威の崩壊した日本社会そのものの似姿でさえあるように思われる。

学級論のダイジェストが長くなりすぎてしまった。他にも本書では、今後の学校教育の青写真として著者が広めている「学びの共同体」の内容からジョン・デューイ論、リテラシー論や演劇−教育論など、興味深い論考が多い。なんと宮沢賢治論まで載っているのだが、思えば宮沢賢治もまた、教える者であった。ちなみに個人的に気になったのはジョン・デューイ。本書はデューイの公共論がメインで紹介されていたが、教育論もあわせて、今後読んでみたい思想家だ。