自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1673冊目】新藤宗幸『教育委員会』

教育委員会――何が問題か (岩波新書)

教育委員会――何が問題か (岩波新書)

謹賀新年。今年もよろしくお願いします。

さて、思うところあって、またちょっと読書パターンを変えてみたい。まあ、ある種のエクササイズのようなものなのだが、お付き合いいただければ幸いだ。

何をやるかというと、テーマ読書。一つのテーマ、著者、ジャンル等について数冊を選んで続け読みをしてみたい。実は異動の時や新しいテーマで仕事をする時はこれをやっているのだが、飛ばし読みが多いので、読書ノートにはほとんど書いていなかった。

今回は、連読は連読なのだが、それよりは少しペースをゆっくり目にとって、一冊一冊にちゃんと向き合っていきたい。まあ、例によっていつまで続くかは自分でもわからないのだが、新しいことをやるには良い時期なので、しばらく試させてください。

ということで、最初のテーマは「教育・学校」。教育というと生涯学習のようなものもあるが、ここでは学校(特に公立校)に焦点を当てて、その前後左右をサーチしていきたい。制度や理論から現場のリアルまで、だいたい20冊ほどを取り上げていく予定だ。

その中で一冊目に選んだのは、教育委員会をテーマに書かれた比較的新しい本であるこの新書だ。まあ、学校現場や国の教育施策など、どこから始めてもよいのだが、地方自治体の人間としてはやはりここからスタートするのがしっくりくる。ここから政策全体を俯瞰するもよし、現場の細部に入っていくもよし、起点としてはたいへんやりやすい。

そしてもうひとつ、理由がある。世間一般において、教育委員会というのはあまり評判がよろしくない、という理由だ。自由選択論や廃止論なども持ち上がり、なんだか外からみていると「風前の灯」状態とさえ感じられる。

大津市のいじめ自殺をはじめ、教育委員会というのは何かというと事件を「隠蔽」する存在としてバッシングされることが多いし、一方では大阪市の橋下市長の発言(「クソ教育委員会」とか)にみられるように、首長が教育に関与しようとしても「教育の中立性・独立性」をタテに協力しようとしないため「抵抗勢力化」されてしまう。一方では東京都教育委など、日の丸・君が代強制をめぐって強圧的な態度で臨んでいるために、一部報道ではまるでゲシュタポ特高なみの扱いだ。

なんでこんなに、あれやこれやと教育委員会は叩かれるのか。また、ロクでもないことばかりやらかすのか(そういうネタばっかりマスコミに出やすいのもあるが)。

前置きが長くなったが、本書はこうした教育委員会のありようを詳しく解説し、あるべき姿について構想した一冊だ。

とはいえこの本、タイトルとはやや裏腹に、教育委員会という組織だけにスポットを当てているわけではない。むしろ本書で強調されているのは、教育委員会文部科学省と「タテの行政系列」で強固に結ばれており、ガチガチの上意下達で縛られているという現状だ。

この点、教育委員会「だけ」を見て批判したり改革案を考える大方の学者に対して、著者はこう書いている。

「実に不思議に思えるのは、教育委員会制度についての教育行政学者の言説が、中央教育行政組織のありかたにおよんでいないことだ。教育委員会制度の精神の回復や教育統治過程への「直接参加」は、すでに論じてきた中央から自治体にいたる教育行政の構造を根本から変えなければ実現をみるものではないだろう。地域レベルでの教育委員会制度の重要性をいう教育行政学者も、すこしきびしくいうと、タテの行政系列をささえる人びとなのだ」(p.166)


こうした「タテの行政系列」の成り立ちについて、著者は戦後間もなく行われた教育改革からさかのぼり、丁寧に検証していく。面白いのは、文部省がGHQによって解体されなかった理由を「謎」としているところ。確かに、あれだけ戦前から戦中にかけて皇民教育を推し進めた省庁をそのまま存置して「戦後民主主義」教育の担い手にしたというのは、ちょっとワケが分からない話ではある。

その後の教育行政の流れは、教育委員公選制とその廃止、中央統制の強化という「逆コース」の展開をとっていく。本書はこうしたややこしい流れを、かなりリベラル寄りの視点ではあるがコンパクトにまとめており、たいへん分かりやすい。

さて、左に右にと激しく揺さぶられた結果どうなったかというと、教育委員会は「教育の政治的中立性」をタテに首長からは距離を置く一方、文部科学大臣を長にもつ文部科学省とは密接につながるという、いわば地方行政の中にぽつんと浮かぶ植民地のような奇怪な存在になってしまった。

ちなみにこの「教育の政治的中立性」という言葉であるが、教育行政のキーワードでありながら、ちゃんと説明しようとすると、これほどワケが分からないものも珍しい。

まあ、政治的立場をもった首長に左右されず政治イデオロギーに左右されない教育を行うという意味ではあるのだが、だったらたとえば東京都教育委員会は、なぜ国旗掲揚・国歌斉唱についてはあからさまに肯定的なのか。そもそも現在の教育基本法は「政治的に中立」といえるのか。著者はここに「国家は無謬」という発想を読み込んでいる。中立性とは聞こえは良いが、要は「正しい」政治的立場を選びなさい、ということなのだろう。

だが問題は、みんなが自分を「正しい」と思っていることだ。著者自身も例外ではなく、国家無謬を指摘したすぐ後にこう書いている。

「首長のもとに教育行政をおくならば、こうした意味の「教育の政治的中立性」がおかされるとの議論が、さきに触れたように盛んだ。だがそれは、法的に規制するとともに公開性を高め、さらにのちに述べるように教育のコミュニティレベルへの分権化を徹底すれば解決できることだ」(p.198-199)


さらに別の箇所で、著者は「教育を市民の手に取り戻す」とも言う。確かに、教育の地方分権化は重要だと、私も思う。だがそれと同時に、読んでいてどうしても気になることがあった。著者の発言の背後に「国家の無謬性」ならぬ「市民の無謬性」への強い信頼が感じられることだ。

著者のスタンスはどちらかというとリベラル的だ。それはそれで良い。だが、市民なら正しい判断ができる、市民に任せ、あるいは市民に監視させれば問題ない、というのは、国家無謬の裏返しの発想ではなかろうか。これは日教組の活動などにも言えると思うが、「何が正しいか」という議論をしているうちは、右も左も同じ姿のネガとポジ、内容が真逆なだけで、やっていることは変わらないのではないかと私などは思うのだが……

まあ、このあたりはもっと書きたいこともあるのだが、今後の本に託しつつ、またいろいろ考えていきたいので、とりあえず今日はこのへんで。私自身の政治的スタンスも、そのうち書く機会があるかもしれない。