自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1671冊目】ミカエル・フェリエ『フクシマ・ノート』

フクシマ・ノート: 忘れない、災禍の物語

フクシマ・ノート: 忘れない、災禍の物語

著者は、日本に住むフランス人作家。原題は直訳すると「フクシマ、災禍の物語」だが、これを「フクシマ・ノート」としたのは、本書中にも取り上げられている大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』を下敷きとしたものだ。

大江健三郎は、プレスコードと自主規制で、戦後10年にわたり原爆も放射能も報道できなかったこの国の新聞や、世界中の原子力関連部門(著者いわく「このきらきらした産業」)の不透明性、さらには被曝調査や医療が原子力利用を推し進める機関の事前承認を受けなければならない現状を、こう表現した。

「この明るくモダンな場所こそが、死者の国なのだ」


本書はそんな「ヒロシマ」のかつての姿を、今の「フクシマ」に重ね合わせる。実際、何も変わってはいないのだ。米国のプレスコードがなくなったが、東京電力は200億円もの広告費用をもつ大スポンサーで、原子力利用の現場では今も欺瞞とごまかしがまかり通り、いっときは原発で働く作業員レベルまで子どもの被曝許容量が引き上げられた。

そして、われわれにとってすでに震災と津波原発は、遠いものになってしまった。原発再稼働を支持する唯一の政党が選挙で圧勝し、街にはいつぞやの節電ブームはどこへやら、いたるところでネオンサインが煌々とまたたき、被災地では今も大量の建材と人手が必要なことは分かっているのに、東京のオリンピックが決まって東京の再開発が叫ばれる。著者は本書の冒頭、日本語版のために寄せた一文を、次のように始めている。

「三年を経ずして「フクシマ」はすでに忘れられた、というのが現在の僕の印象です」


もちろん、ニュースでは話題になる。国会でも取り上げられ、決まり文句のように「被災地の支援」「東北の復興」が謳い文句になる。だが、それだけだ。われわれは、空疎な決まり文句の中に被災地の現実を押し込め、「逐われるように家を離れた何十万もの人びとの怒りと絶望」を、「何日間も続いた不安、情報操作とウソと言い逃れに振りまわされた日々」を、停電も節電も除染も食物の被曝も、3月11日からしばらくの間の、あの粟立つような肌感覚を忘れている。

本書はたった一冊の本ながら、読むほどにあの日々の記憶をよみがえらせてくれる。多くの新聞やテレビや雑誌が実質的には封印し、「なかったこと」に仕立てあげてしまった「東日本大震災」後の日本を、今のわれわれが生きていることを思い出させてくれる。3月11日の経験。津波の災禍。不安と恐怖のどん底にわれわれを叩き込んだ原発事故。そしてあの日、たしかにわれわれは、戦後という日々を新たに踏み出したように、震災後という日々を新たに生きなおそうと思ったのだ、ということを。

著者は日本在住のフランス人だ。原発事故の拡大を恐れて多くの外国人が帰国したあとも、著者は日本に踏みとどまった。そして被災地に向かい、津波にさらわれた町やそこで生きる人々の姿をノートに書き留め、フランスに伝えた。電力の75%を原子力で賄っている祖国に。

さらに著者は、被災地で見聞きしたすさまじい災厄やそこで生きる人々の輝きをディテール豊かに書きとめつつ、そこにホメロスランボーセリーヌなどの西洋の古典を重ね合わせる。平家物語芭蕉も登場する。それによって現実の出来事が新たな意味をもって捉え直され、意味づけられ、神話的な枠組みを与えられていく。

中でも印象的なのは、被災後の日々を著者が「ハーフ・ライフ」(半減の生)と呼んでいることだった。もともとハーフ・ライフとは放射性物質の「半減期」をいうが、著者はそれが、セシウムプルトニウムだけでなく「フクシマ」後の生活をも表現していると感じたのだ。生き切ることのできなくなった生、異常を正常と言いくるめる生。

「完全に異常である状況を、正常であると言う。普通でない事象に少しずつ慣れる。生命が危険に曝される状況を合法化し、正常化する。許容しがたいことと折り合いを付ける。原子力発電所の社員、とりわけ下請けの社員はひと言も声を上げずに被曝し、周辺住民は沈黙と諦めに追いこまれる。慢性的で間断ない排出が容認され、認可さえ降りる。処理が不可能な廃棄物が、恥知らずにも、将来の世代へ継承される。この猛威が、このうえない平静のうちに拡散していく。最高度に有害で、広範で、長期にわたる放射能汚染が、大気中に拡散し、地中深く沈み、海洋中に限りなく希釈され、いわば平穏のうちに、習俗、慣習、そして判例のなかにまで溶けこんでいく」(p.278)


これぞハーフ・ライフ。悪夢としての生。生き切ることのできず、緩慢に、平穏に立ち腐れていく生。ごまかしと欺瞞とウソを淡々と受け入れ、4年に1度のかりそめの祭典に熱狂し、放棄された町や、未だに回収されていない高濃度汚染地域の震災の犠牲者や、生活のすべてを奪われて身一つで逃げてきた、今まさに日本のどこかに存在する被災者を忘れて生きていく。日常の生活とやらに引きこもり、フクシマに背を向けて。著者はそんな日本人を責めたてはしない。ただ、静かに告げるのだ。それはハーフ・ライフだ、と。

読みやすいが、濃く、そして重い一冊だ。

ヒロシマ・ノート (岩波新書)