自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1654冊目】コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』

チャイルド・オブ・ゴッド

チャイルド・オブ・ゴッド

競売によって土地を奪われたレスター・バラードは、ライフル銃を片手に山の中へ移り住む。居場所を失い、孤独の中で次第にバラードの心は暴走し、荒廃する。死体と交わり、自らも人を殺し、そしてさらにその死体を犯す。いつしかバラードは、正真正銘の連続殺人犯に成り果てていく……。

邦訳されたのは今年だが、原著はなんと1973年の刊行だ。出世作となった『すべての美しい馬』や、こないだ読んだ『ブラッド・メリディアン』より前なのである。だがマッカーシー特有の句読点の極端に少ない文章や、セックス&バイオレンスの凄まじさ、そして情景描写の美しさなど、その特徴はすでにはっきり現れている。

立て続けに殺人を犯すバラードの心の中は、ほとんど描写されない。いや、感情の動きは描かれているのだが、それは殺人の瞬間にも関わらず、まるで虫を殺すような、さざなみ程度の動きなのだ。それだけであっさりとバラードはライフルを撃ち、殺した女と交わる。その描写が無機的であればあるほど、バラードの心の荒涼が、背筋の寒くなるようなリアリティで読み手に伝わる。

むしろ読者は、気がつけばバラードの視点で世の中を眺めている。バラードの見る風景を読者も見ているのだ。視点を共有するということは、バラードの立場で物語を追うことになる。それはつまり、連続殺人者の視点で世界を見る、というおぞましい経験を、読者も強いられるということだ。

本書に限ったことではないが、マッカーシーの情景描写は美しい。それもロマン派的な情緒過多の描写ではなく、感情を一切排した冷厳な美しさなのだ。その視点は世の中の、美しいものもおぞましいものも、同じように淡々と記述していく。だから読んでいるうちに、読者もまた、善と悪の境目が見えなくなり、ただただマッカーシーの導くまま、悪と闇の世界に引きずり込まれる。

いろいろギョッとする描写もあるのだが、個人的にインパクトが大きかったのが、冒頭近くのバラードが「野グソ」をするシーンだった。こういう、すべてを同じトーンで描いていくやり方が、いかにもマッカーシーらしい。

「そこに屋外便所があったとわかる名残は雑草が突然変異的に巨大化して生えている浅い穴の底の湿気で軟らかくなり鮮やかな緑の苔を生やした数片の木板だけだった。バラードはその脇を通り納屋の後ろへ行って白花洋種朝鮮朝顔や犬酸漿の繁みを踏みしだいてからしゃがんで脱糞した。一羽の鳥が暑い埃っぽい羊歯の繁みで啼いている。鳥が飛び立った。枝についた木の葉で尻を拭き立ちあがってズボンを引きあげた。嵩のある暗色の糞には既に緑色の蠅が数匹たかっていた」(p.16)


これはもう、すでに美しいとか醜いとか、そういうレベルの描写を超えている。だいたい、自分が排泄したばかりの糞にまで描写を施す、という発想にびっくりした。こういうところまでぎっちりと描写を埋める作家は、いるようでなかなかいない。

この調子ですべてのシーンが描写で埋められていく。殺人のシーンでさえ例外ではない。たとえばこんな感じだ。

「振り返って家を見た。娘が窓の外からこちらを見ていた。バラードは荒れた車回しを歩いて家のほうへ引き返した。クラブアップルの木に立てかけておいたライフルを取り家の横壁に沿って進みシンダーブロックの低い塀の上にあがって歩いて洗濯紐の横を通り炭の山の横を過ぎて窓を覗きこめる場所へ来た。ソファーの上に娘の後頭部が見えていた。しばらくそれを見ていたあとライフルを持ちあげ撃鉄を起こし頭に照準を定めた。丁度そのとき不意に娘がソファーから立って窓のほうを向いた。バラードは発砲した」(p.138)


この機械のようなリズム感。「クラブアップルの」から「窓を覗きこめる場所へ来た」までのやたらに細かい描写。そのまま同じリズムで、当然のように発砲に至る文章。まったく、なんという小説か。気味の悪いほど、淀みやたゆたいのようなものがまったくない。その分、読み手はいったんページを開けば息つく暇もなく、本を置くタイミングさえ難しい。

繰り返しになるが、本書は主人公に共感する小説ではない。連続殺人者である主人公の目で世界を見る小説だ。決して「気分の良い」物語ではないが、そのリズムに身を委ねてしまえば、滅多に見られない、すさまじいものが見られることだろう。お約束する。

すべての美しい馬 (ハヤカワepi文庫) ブラッド・メリディアン