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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1640冊目】大野晋『日本語練習帳』

日本語練習帳 (岩波新書)

日本語練習帳 (岩波新書)

これは名著。恥ずかしながら今回初読だったのだが、今まで読んできた「文章作法」系の本のなかで、本書が一番タメになったかもしれない。

第一章は「単語」。「思う」と「考える」の違いにはじまり、感覚的にはなんとなく分かっても説明しがたい似たような言葉の違いを理路整然と解き明かしていく。たとえば「行くべきだと思う」を「行くべきだと考える」と言い換えても、意味は通る。しかし「今日の献立を考える」とは言っても「今日の献立を思う」とは言わない。それはなぜか。

言葉には一定の意味の幅がある。「思う」と「考える」ではその一部が重なり合っている。だが重なり合っていない部分もあって、われわれはその両方を感覚的に使い分けている。本書はその感覚的で経験則的な「違い」の奥底にあるものを、具体例を挙げつつあざやかに照射していく。

だから本書を読んで、たとえば「『思う』とは、一つのイメージが心の中にできあがっていて、それ一つが変わらずにあること。胸の中の二つあるいは三つを比較して、これかあれか、こうしてああしてと選択し構成するのが『考える』」(p.7)と解説されると、言葉の奥にあるフィーリング的な部分が明快に言語化され、自分でも気がつかない「かゆいところ」をかいてもらったような快感がある。う〜ん、これはヤミツキになりそう。

あとは駆け足でいくが、第二章は「文法」で、ここでは有名な「は」と「が」の使い分けに関する解説が絶品だ。「私はhachiroです」「私がhachiroです」は、いったい何が違うのか、明確に説明できるだろうか。「hachiroは来た」「hachiroが来た」の違いは? 有名な箇所なのでここだけでもお読みになった方は多いだろうが、未読の方はぜひここだけでも読んでほしい。目からウロコがボロボロ落ちることを約束する。

第三章は後回しにして、第四章は「文章」。単語、文法と積み重なって、今度は文章全体の骨組、骨格をどう作っていくかを考えていく。ここで紹介されるトレーニング・メソッドが、社説の「縮約」であり「要約」だ。ちなみに縮約とは「文章全体を縮尺してまとめること」。意味や趣旨を拾い上げる「要約」とは違う。

この縮約メソッドは面白い。要約と違って、内容だけでなく構造にも着目せざるを得ないからだ。そしてこれが、実際に文章を自分で書く時のフレーム・パターンになっていく。ちなみにこの「読書ノート」でやっているのは、縮約ではなく要約だ。本一冊となると、さすがに縮約では限界がある。

第五章は「敬語」だ。ここでは敬語の分析を通して、日本人の精神の奥底にまで迫っており、言語学というものの奥の深さを存分に感じさせてくれる。特に面白いのが、日本語の敬語が単なる身分の上下だけではなく、「ウチ」と「ソト」、つまりは距離感をベースに成り立っているという指摘であった。

「日本語の社会で最も古く根源的なのは、人々が、近いか遠いかを軸にして人間関係を考えることでした。上か下かの認識を大切にするのは、古墳時代以後の漢字文化の輸入による社会の階層化、家父長制的社会制度の成熟と関係があるようです」(p.153)


さらに著者は、尊敬語には「おいでになる」「いらっしゃる=入らせらる」「おっしゃる=仰せある」など「ナル」「ラル」「アル」といった言葉がつくことが多いことに着目する。これらの言葉は「自然的成立」つまり自然のまま起きるような事象に使われることが多い(「寒くなる」のように)。ということは、どういうことになるのか。引用ばかりで申し訳ないが、著者の見事な分析を、ここでも長めに引用したい。ヘタな解説より、著者自身の明快な説明のほうがはるかに分かりやすいのは困ったものである。

「原始社会の人々の心性では、ウチは安心な場所、親愛できる、なれなれしくできる、時には侮蔑にまで発展していってもさしつかえないところ。ソトは恐ろしい場所、恐怖の場所、妖怪や神がいるところでした。ソトで生じることは自分に左右できないこと、自分が立ち入るには危険を冒さなくてはならないことでした。だから、ソトの人、ソトのことには傷つけないように、手を加えないようにします。
 したがって、ある一つの行為をソトのものとして手を加えないこと、つまり成り行きのままとして扱うとは、恐ろしい自然のままのことと扱うことでした。それが尊敬へと展開しました。日本語の尊敬は、いきなり相手を上と扱い下と扱う人間関係の上下から始まったのではなく、根本的には外界に対する恐怖から始まった。それが、恐怖→畏怖→畏敬→尊敬という展開をへて、人間的関係に広がり、いわゆる尊敬語になったのです」(p.181)


もうこれは単なる言語学のレベルではない。一級の日本人論、日本文化論、日本民俗論といってよいように思う。感服。

さて、先ほど飛ばした第三章だが、実は本書全体のなかで、この章が一番身につまされた。ここでは、著者が文章を書くにあたって心得としている項目として、二つのことが挙げられている。第一は、「のである」「のだ」を消すこと。第二は、「が、」を使うな、というものだ。

特に最初の「のである」「のだ」については、「単に強い断定であるのではなく、相手に教える場合によく使う」「君たちは知らないだろうがこういう事実があるんだよ、という気持ちを込めた表現」とされており、これにはギョッとした。なにしろこの「読書ノート」、語尾のバリエーションの関係もあって、この「のである」「のだ」をしょっちゅう使いまくっているのだから。

ところが著者によると、要するにこれらは「上から目線」なのだそうだ。そ、そういうふうに読まれていたとすれば、これは本意ではない。なんとかせねば……と言うワケで、「のである」「のだ」を、今後はなるべく使わないようにしたい(まったく使わないのはムリだ)。いつまで続くかわからないが、本書を読んだ結果の反省としてここに記しておきたい。「が、」を使わない、という方は……ちょっとムリかな。