自治体職員の読書ノート

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【1636冊目】仲正昌樹『いまこそロールズに学べ』

いまこそロールズに学べ  「正義」とはなにか?

いまこそロールズに学べ 「正義」とはなにか?

「正義論」で有名なアメリカの哲学者ジョン・ロールズの思想を解説した入門書。とはいっても、かなり本格的な解説なので、歯ごたえはけっこうある。それなりに「脳に汗をかく」読書になった。

そもそもロールズ自身、かなり「細かい」思想家だったらしい。さまざまな議論や批判の中で、常に自分の思想を修正し続けると同時に、正義論全体の体系も組み立てようとした。そのため、どんどん議論が複雑になっていくのだが、それを厭わずにやり続けたため、結果としてかなり「しつこく」「マニアックな」気質の思想ができあがってしまったらしい。本書のややこしさは、多分に、そうしたロールズ思想自体のややこしさの反映なのだろう。

とはいっても、サンデル・ブームの中で批判的に取り上げられることも多いロールズ思想を、ある程度整理したカタチで読むことができたのはありがたかった。特に本書は、ロールズ思想への批判とロールズ自身の反論を、まるまる一章を割いて解説しているので、結果としてロールズの思想そのものを複眼的に眺めることができるだけではなく、批判者たち(功利主義者、リバタリアンコミュニタリアンなど)の思想についても反面的に知る事ができるようになっている。

そういうわけで、本書の中でも変転と成長を続けているようなロールズ思想についてここでさらに整理して書くのはなかなか難しいのだが、ひとつのポイントを挙げるとすれば、やはりロールズ自身が生涯固執したという「格差原理」だろう。

これは「社会的・経済的にもっとも不遇な人たちの福利の向上が見込まれるかぎり許容される格差」(p.66)のこと。これは平等原則の例外を極限したものであるが、それと同時に、ロールズの思想の根本をなすものとして重要だ。

ロールズが提示した有名な概念に「無知のヴェール」がある。これは、人々が最初に「何が正義か」「何が法原理か」を決める場面を想定し、その場においては、人々は自分が何者で、どういう能力や地位・属性をもっているのかが分からない状態である必要がある、としたものだ。

ロールズはルソーの「社会契約論」にこの「無知のヴェール」の概念を接続することで、「最初の状態(原初状態)」における国家や社会の成り立ちを仮想してみせた。そうすれば、「合理的な市民」は必然的に、ある一定の枠組みのもとでの自由と平等を志向するようになる、とロールズは想定したのだ。

しかし問題は、ここでなぜ「無知のヴェール」が必要かということだ。その理由こそが、先ほどの「格差原理」なのである。つまり、人々が法制度や社会制度の基本原理を定める際に、自分が「社会的・経済的にもっとも不遇な人たち」である可能性を排除しない、ということがポイントなのだ。

こんなことは当たり前とも思えるが、いやいや、果して人々が「無知のヴェール」なくして物事を決めたらどうなるか。ここで出てくるのがいわゆる功利主義、つまりは「最大多数の最大幸福」というヤツである。一見この両者は似ているが、最も大事なところが大きく違っている。「功利主義」は、言ってみれば人々の幸福の「合計値」あるいは「アベレージ」が最大になるポイントを選ぶ。しかしロールズ式の格差原理は、「最低値がもっとも高い」ところを選ぶのだ。これを「マクシミン基準」という。

実際に導入するかどうかはともかく、こうした考え方を知っておくことは、国や自治体が制度設計を行う際にもたいへん重要だ。制度を決める時に「全体のアベレージに着目するのか」「最低ラインに着目するのか」を考え、決定することは、政治や行政の根本思想に関わる問題なのである。ハンセン病患者、水俣病患者、あるいは福島の原発避難者たち……。彼らに対する法制度をつくった日本の為政者に「無知のヴェール」はかかっていただろうか。

さて、こうしたロールズの思想に対してはさまざまな批判が寄せられるワケだが、本書に紹介されている中では、私はイギリスの法哲学者H・L・A・ハートの批判が面白かった。

ロールズは、無知のヴェールの下で、自己利益を追求する合理的な人間が必然的に「自由の優先」ルールを選択すると考えた。しかしそこには、ある一定の「理想的な市民像」が前提とされていないか。ロールズの「必然」とは、つまり一種の「論点先取」なのではないか、とハートは指摘したのである。

で、これに対してロールズはいろいろ反論しているのだが、面白いのは、結局ロールズ「ハートが指摘していた『公共精神に満ち溢れた市民』の理想像の想定を、開き直って肯定する方向に向かっている」(p.181)というところだ。原初状態の人々の姿をこのように想定し、そこに無知のヴェールをかけて議論をしてもらえば、そりゃ結論は「自由と平等」になるに決まっている、なぜならそういう結論を出すような人たちがそこにいるからさ、というワケだ。

このあたりはロールズに限らず、リベラリズムの思想で私がもっとも「うさんくささ」を感じてしまう部分である。日本でも「市民」概念を規定して、市民による地方自治を理想化した論者がけっこういた(今もいる)が、そうした議論に対して感じる自己撞着感と、ロールズの議論に対する印象はひどく似通っている。しかしその違和感の理由のひとつが、本書を読んで見えてきた。なるほど、これって「論点先取」だったのだ。

とはいっても、やはりロールズの正義論の発想というのは、今の世の中だからこそ非常に重要だと思う。特に、多様な価値観や世界観があるからこそ、そうした違いを越えて「公共的な事柄に関して協働するためのプラットフォーム(だけ)を提供する」(p.219)という姿勢は見直されるべきであろう。それをロールズ「重なり合う合意」と言っている。

このあたりはリベラリズムの本領というか、思想としての「筋金」の強さを感じさせる。互いに相容れない価値観の中で社会も国際関係も泥沼化しつつある中で、ロールズがもてはやされるのも分かる気がした。結局ロールズに代表されるリベラリズムは、何が「善」かを決定するより、多様性を認めたうえで、日本語的に言えば両者が乗っている「土俵」を指し示し、あるいは作ろうとしたのだろう。

ちなみに著者は「善」と「正義」の違いについても本書冒頭で明快に解説しており、これが非常に面白かった。気になる方はご一読あれ。

正義論 社会契約論 (岩波文庫)