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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1629冊目】松家仁之『火山のふもとで』

火山のふもとで

火山のふもとで

ずっと前に、時々拝読している「ハッチのライブラリー」という読書日記で紹介(絶賛)されていた一冊。すぐに入手したものの、長らく「積ん読」だったが、やっと読めた。

そして、読み始めてすぐに、すぐ読まなかったことを後悔した。これはそういう小説だ。

浅間山のふもとにある、設計事務所の「夏の家」で過ごす日々を、事務所に入ったばかりの「ぼく」の視点から綴った長編小説。描かれているのは、仕事と生活が一体となった、特に何ということもないような日々なのだが、それが読んでいて無性に心地良い。

その理由は、なんといっても細部にある。とにかくディテールのセンスが素晴らしいのだ。どんなものを食べるか、どんな道具を使うか、どんな音楽をかけるか、庭にどんな植物が植わっているか……。著者の「センス」と「好み」が生活のすみずみまで浸透しており、しかもそれが全然キザったらしくなく、周到さを感じさせないのがまたセンスの良さなのだ。

例えば、車。建築家の「先生」はボルボ240ステーションワゴンで、事務長の井口さんがメルセデスベンツステーションワゴン、柔和な性格の河原崎さんがメタリックブルーのシトロエンDS21、無口で緻密な小林さんは濃紺のプジョー305ワゴン、活発な性格の麻里子さんが黒いルノー5というのは、まあ外車ばかりというのはちょっとやらしい感じもするが、しかしこの凝りようが著者のセンスなのだろう。

食べ物の使い方もうまい。しゃれているが凝り過ぎないギリギリのところを、シチュエーションにあわせてさっと出してくる。麻里子さんのところに行った「ぼく」に出されるのは手早く焼いたスコーンで、設計案のプレゼン前にさっと食べる食事はローストビーフにビシソワーズとパンがバゲットにカンパーニュ。一方で麻里子と二人きりの夕食は冬瓜のスープに野菜の甘酢漬け、ピータン、餃子で、「先生」の男二人の夕食は、駅前の定食屋で煮カツ丼と親子丼なのだ。こうした絶妙のディテールが、暴走することなく、ごく自然なかたちで物語に融合している。

建築家の裏舞台が覗けるのも面白い。建物の設計はどういう発想と工夫で行われるのか。役割分担はどうなっていて、新人はそこでどういう仕事をするのか。そして、なんといっても素晴らしいのは、本書で設計のコンペに参加する建物が「図書館」であるということ。図書館好きには、これだけでも本書を読む価値がある。

設計コンペに向けた創造のプロセスと、「ぼく」と麻里子の恋路が絡まり合いながら物語は進み、そして急転直下、ある「事件」が起きる。だが物語はその事件も呑み込みつつ、さわやかで、どことなくせつないラストに向けて進んでいく。そして、読み終わって気付くのだ。本書は、遠い青春の日々、二度と帰ってこないせつなく甘酸っぱい日々を思い出し、綴った一冊であるのだ、と。

著者は雑誌「考える人」の元編集長で、あの新潮クレスト・ブックスを創刊した方でもあるらしい。絶妙なセンスとバランスのよさはそういうところからきているのか、と納得。だが、本書が小説のデビュー作、というのはちょっと信じられない。それほどの完成度なのだ。

それこそ、クレスト・ブックスに「海外の知られざる作家の作品」として登場してもおかしくないくらいのレベルである。オススメ。そういえば、最新作『沈むフランシス』も出たばかりのようだ……絶対読む。

沈むフランシス