自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1625冊目】森茉莉『私の美の世界』

私の美の世界 (新潮文庫)

私の美の世界 (新潮文庫)

このあいだ『甘い蜜の部屋』を読んだ森茉莉のエッセイ集。あの世界観の背後にある著者ならではの美的感覚がダイレクトに伝わる。

たとえば、好きなものは練乳(コンデンスミルク)。日本酒は嫌いで白葡萄酒、クレエム・ド・カカオ、ヴェルモットが良い。ウィスキイは特に香りが好き。薄茶、紅茶(リプトン)、上煎茶、スイスか英国製の板チョコレエト、戦前のウェファース、抹茶にグラニュー糖を入れた即席和菓子が好きで、番茶、塩煎餅、かりんとうはあまり好きでない。煙草はフィリップ・モリスかゴオルデンバット。チイズはオランダ・チイズにプチ・スイス・チイズ。平目の牛酪(バター)焼と刺身。野菜の牛酪煮。淡泊り(あっさり)煮た野菜。砂糖を入れた人参の甘煮。トマトの肉汁。ロシア・サラダ。八杯豆腐、蜆などの三州味噌汁。

細部に突っ込んだこだわりもある。たとえばビスケットについてはこうだ。「固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、噛むとカッチリ固いくせに脆く、細かな雲母状の粉が散って、胸や膝に滾れるようでなくてはならない。また彫刻のように彫られている羅馬(ローマ)字や、ポツポツの穴が、規則正しく整然と並んでいて、いささかの乱れもなく、ポツポツの穴は深く、綺麗に、カッキリ開いていなくてはならない」(p.31)。しかも「この条件の中のどれ一つ欠けていても、言語道断であって、ビスケットと言われる資格はない」のだそうな。

『甘い蜜の部屋』のモイラの要求もこのレベルだったのだとすれば、召使いは大変だが、それはともかく、本書はとにかく徹底して、著者の「好きなもの・嫌いなもの」「美しいもの・醜いもの」を一貫させた一冊なのだ。その領域は食べ物から日用品から社会現象や日本という国にまで及ぶ。

言いたい放題といえばそうなのだが、だがこれだけ自分の価値観や美意識を明示し、列挙するというのは、簡単なようでむずかしい。ちなみにこれをもっと徹底してやった日本の古典が、かの『枕草子』。これは日本古来の芸なのかもしれない。

だが、著者の芸はある意味、天然の芸でもある。なんといっても、父・鴎外の溺愛を受けて育ち、幼いころから裕福な家庭環境で育ったことに加え、若い頃の外国暮らしで西欧のセンスを身に付けたことが大きい。だが、この人が一番スゴイと思うのは、晩年の貧しいアパート暮らしの中でも、その美意識と感性を失うどころか、誰にもマネのできない方法で磨き上げたこと。著者には『贅沢貧乏』という著書もあるが、この人は実際に貧乏の中でも「ほんものの贅沢」を貫徹した。

では「ほんものの贅沢」とは何か。著者はこう書いている。

「ほんとうの贅沢な人間は贅沢ということを意識していないし、贅沢のできない人にそれを見せたいとも思わないのである」(p.238)

 

もっと具体的には、

「門から玄関までが足疲れるほど遠い家の居間に、夜坐っていると、門番が門を閉める音が雨の音を距てて微かにきこえる。家の後の森の木を伐った薪を放りこんだ暖炉(ストオヴ)が燃えている。そういう家の主人が犬を伴れて散歩に出る。その男は自分が大きな邸の主人だとも、贅沢だとも、そんなことはまったく頭にない。これが贅沢である」(p.239)

うわあ。

著者にとっては、贅沢を見せびらかすことほど貧乏臭いことはない。要は人間の中身の問題なのである。著者はまた、「庶民」という言葉や庶民的なものも嫌う。分かる気がする。たぶん著者は「庶民」とか「贅沢」という看板をぶら下げて歩くようなことがたまらなくイヤなのだろう。

ちなみに著者の文章は、漢字の並びが美しい。ヨーロッパは「欧羅巴」、パリは「巴里」、ベルリンは「伯林」だし、若いは「嫩い」(しかし、最近はこの字をあてたくなるような若者がいないという)だ。この独特の感覚、舶来も国産もない、著者独自のセンスであろう。

甘い蜜の部屋 (ちくま文庫) 贅沢貧乏 (講談社文芸文庫) 枕草子 (岩波文庫)