自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1616冊目】大澤真幸『現代宗教意識論』

現代宗教意識論

現代宗教意識論

宗教や現代社会をめぐる11の論文を集めた一冊。第一部が「宗教原理論」、第二部が「現代宗教論」、第三部が「事件から」となっている。

序文に社会学タルコット・パーソンズ「宗教が社会現象なのではない。そうではなくて、社会が宗教現象なのだ」という言葉が引用されており、これが本書全体を貫くタテ糸になっている。特にオウム真理教を論じた第二部、酒鬼薔薇事件や秋葉原事件などを論じた第三部では、宗教という切り口を導入することで事件の深層をおどろくほど深く切り取り、返す刀で現代日本の社会そのものをあぶり出しており、なかなか読み応えがあった。

なかでも、宗教原理論について書かれた第一部で〈他者〉と〈私〉について考察しているくだりが、第三部の酒鬼薔薇事件で現実の事件のなかに立ち現れるところは、読んでいて鳥肌が立った。だいたい、酒鬼薔薇事件について論じた文章はいろいろあるが、ここまで深く、ここまで真に迫っていると思えるものはあまりない。

〈他者〉と〈私〉についての考察とは、その論証のプロセスはとてもここでは辿り切れないので結論だけ書いてしまうと、〈私〉と〈他者〉とは無限に近接しており、いわば〈私〉とは実は〈他者〉そのものなのだ、というものなのだ。

宗教ということでいえば、〈私〉が人間とすれば〈他者〉とは神のことである。そして、〈他者〉と〈私〉の関係のありようをめぐって、著者は宗教をいくつかに分ける。ひとつは「超越的な神が、超越的な場所から、内在的な人間に関わろうとする宗教」であり、もう一方は「内在的な人間が、超越的他者になることを目指す宗教」である。前者にはユダヤ教イスラム教の大半、後者には仏教が含まれる。キリスト教も基本的には前者だが、著者はむしろ「キリスト教は、この二形態を媒介するような位置にある」としている。

さて、ここで一気に本書の後半、第三部第2章の酒鬼薔薇事件分析を見てみよう。著者がまず着目するのは、少年Aが、女の子を金づちで殴る前に、わざわざ「お礼を言いたいのでこっちを向いてください」と言っているということだ。普通は逆に、殺す相手の顔を見ないようにする犯人が多いことを考えると、後ろを向いている相手にわざわざこっちを向かせるというのは尋常ではない。

ここで著者はエマニュエル・レヴィナスの「〈他者〉は顔において顕現する」という言葉を引き、さらには〈他者〉を知覚する際、〈私〉は知覚する主体となり、〈他者〉は「〈私〉の知覚にとっての単なる受動的な対象に堕する」ことに着目する。つまりは〈他者〉の存在と〈私〉の存在は「同等な必然性」を有している

ここで少年Aの心理を考える。少年Aは人間を物質視するような文章を多く残しており(「人間の壊れやすさを確認する」「野菜を壊す」など)、〈他者〉の魂の存在を疑っていることがうかがえる。となると、先ほどの前提からすると、彼は自分自身の存在や魂についても希薄な実感しか持ちえないと思われる。有名な「透明な存在であるボク」という表現が、この推定には見事に符合する。

だがそうすると酒鬼薔薇聖斗と名乗るこの少年の中で、〈他者〉の魂の存在についての検証が無残に崩壊してしまったのはなぜなのか」(p.248)という疑問が生じてくる。ここで著者が注目したのが、事件の2年前に起きた阪神淡路大震災なのだ。「世界の現実性(リアリティ)が破裂」するのを見、世界を成り立たせている「意味」の虚構性を、あの震災は暴き立て、少年Aの中での「「意味」の保証人としての(超越的な)〈他者〉の権威も、魂の自明性も、決定的なダメージを被ったに違いない」(p.255)と。

もちろんこれは「少年A」特有の事情として推定されるにすぎず、他の様々な因子が複雑に絡み合うなかで、大震災もまた影響した、ということであるから、あまり大震災の影響を過大視するのも良くないのかもしれない。しかし本書を読んで私が不安を覚えたのは、2011年3月11日の東日本大震災が子供たち、少年少女たちに与える精神的な影響であった。世界の秩序と意味の崩壊、魂の自明性へのダメージを、果してどれほどの人々が受けたことだろうか。

もちろん物質的なケアも重要だが、こうなってくるとそれと同じくらい重要になってくると思われるのが、精神的なケア、特に一人一人の子供たち、青少年たちの精神内部で崩壊した「意味」を再構築することだ。そのために必要なのは、おそらく「物語」であろう。そもそも宗教もまた、意味を形成するための物語から発祥したのではなかったか。

他にも、なぜ少年Aが「酒鬼薔薇聖斗」の名前を読み間違えられて怒ったか、「一人の人間を二度殺すことができる」という彼が書いた文章の意味などが鮮やかに読み解かれていくくだりは圧巻。もちろん実際に彼がそう感じていたかどうか、実際のところはわからない。だが、あの事件を通じて、現代の日本そのものもまた映し出されていたことを考えると、現代日本社会分析としても、この論文は意味をもっている。

ところでやや脱線だが、なぜ現代の人々はネット上に日記をさらすのか、という疑問に対して、著者は、それは彼ら(私もその一人かもしれない)がネット上に「抽象的な神」を無意識的に想定しているからだ、と書いている。神というと大げさな感じもするが、擁するに具体的な(顔の見える)個別の他者ではなく、「未知の匿名の他者」がそこには想定されているというのだ(神とは、要するにそういった未知の他者の代名詞である)。

プロテスタントたちは、教会で司祭に懺悔するかわりに日記を書いたという。それが神への告白であったのだ。そう考えると、ツイッターやブログでバカやった写真を投稿している連中も、実はネット上の神に「懺悔」しているのかも……んなわけ、ないか。でも、ネットへの投稿を「誰が」見ているのか、という想定については、この指摘は案外当たっているように思えた。