自治体職員の読書ノート

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【1614冊目】ミラン・クンデラ『生は彼方に』

生は彼方に

生は彼方に

文庫版も出ているが、私が読んだのは単行本。そのため、たとえば主人公の名前が、文庫だと「ヤロミール」になっているらしいが、単行本だと「ヤロミル」。同じ訳者なのになぜなのかよくわからないが、とりあえずここでは「ヤロミル」でいく。

さて、クンデラの小説は、以前読んだ『存在の耐えられない軽さ』でちょっと苦労した(当時書いた記事を読み返すと「三振読書だった」とある)。ところがどうしたわけか、本書はスッと入ってきたし、非常に面白かった。

なぜなのか、読みながら自分でも不思議だったんだが、本を閉じてから思ったのは、『存在の…』の時は自分のペースや読み方で読もうとしすぎたのに対して、今回はクンデラの言葉の流れに最初から身を任せたのがよかったのかもしれない、ということだ。

これは私の勝手な思い込みだと思うのだが、どうもこのチェコの作家、小説のハコビや言葉の選択がいちいち的確すぎるというか、情景から心理描写から会話のはしばしに至るまで「これしかない」という言葉だけを選び抜いて使うので、それをこちらでいろいろ読み替えようとしたり、そこから何かを読み取ろうとすると、とたんに読めなくなるようなのだ。それは本書のテーマであり、ひょっとしたらクンデラそのもののテーマかもしれない「反抒情」ということとも関係しているのかもしれない。

このヒントは本書の「訳者あとがき」からいただいた。訳者の西永氏はそこで、本書の語り方が「異常なまでに明晰かつ批判的」に書かれている理由を「この小説が、みずからの主観的な感情を絶対的な価値に仕立て上げる抒情主義を告発し、批判するために書かれているから」としているのだ。そういえば、本文中にも次のように抒情主義について触れている箇所があった。

「抒情とはひとつの陶酔であり、人間は酔うことによって普通より簡単に世界と交り合う。革命は人から研究されたり観察されたりするのを望まず、人が革命と一体になってくれるのを望む。革命が抒情的であり、抒情が革命にとって必要なのはこの意味においてだ」(p.204〜205)


そして社会主義下のチェコスロヴァキアについて、著者はこうも語る。ここにおいて、一見関係なさそうな「小説の書き方」と「社会主義」が、ものすごく意外なカタチで結びつく。

「あれはただ恐怖の時代だけではなかった。あれはまた抒情の時代でもあったのだ! 詩人たちはその時代、死刑執行人たちと一緒に君臨していたのだ」(p.280)


そしてこの抒情主義、革命と結びついた詩人を体現しているのが、まさに本書の主人公、ヤロミルなのである。主観的で感情的、ロマンチストでエゴイストなヤロミルの心理を、クンデラは解剖するように精緻に描写してみせる……もっとも「非抒情的」な筆致で。というより、ヤロミルの抒情を描くためには、クンデラは非抒情的な散文形式を採らざるを得なかったのだろう。おそらくそれが、クンデラにとっての小説の意味なのだ。

ところで、言いたかないんだけど、ここのところの東京オリンピック・フィーバーもまた、ずいぶんな「抒情的」狂騒ですな。もう一度書いておこうか。「主観的で感情的、ロマンチストでエゴイスト」。これがつまらぬオリンピック・ファシズムに陥らないことを、切に願っております。

ところで『存在の耐えられない軽さ』では、そのタイトル自体が作品のテーマを告示していた。本書『生は彼方に』でも、同じような面が見受けられる。本書の中で、ご丁寧にもクンデラ自身がそのことを説明しているのである。こういう「ネタばらし」も、素直に読めばそのまますっと入ってくる。

「……それというのも、本当の生は彼方にあるからなのだ。学生たちは舗道の敷石をはがし、車をひっくり返し、バリケードを築く。彼らのこの世界への侵入は美しく、騒々しく、炎に照らされ、催涙弾の爆発のあいさつを受ける…(略)…しかし、そこから1キロ離れたセーヌ川の向う岸では、この世界の古い主人たちが相変らず自分の生活を続け、カルチェ・ラタンの喧騒などはるかかなたの出来事のように届いた。夢は現実だ、と学生たちは壁に書いていたが、真実はむしろその反対だと思われる。その現実(バリケード、切り倒された木々、赤旗)こそが夢だったのだ」(p.186〜187)


先ほどの「抒情」と「非抒情」をこの文章に重ね合わせることは、それほど難しくない。

それにしても、いやはや、やっとクンデラの「入り口」くらいには立てただろうか。『存在の…』もこの勢いで、もう一度読み返してみようかな。それともいよいよ、最高傑作とウワサされている『不滅』にとりかかろうか……

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫) 不滅 (集英社文庫)