自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1610冊目】大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』

社会は絶えず夢を見ている

社会は絶えず夢を見ている

講義形式でいろんなテーマについて考察を深めた一冊。おもしろい。

第一講は〈「日本語で考えること」を考える〉というタイトルだ。ここでは「……は」という語法が明治以降の日本に急に登場したことを取り上げる(典型が大日本帝国憲法の「大日本帝国ハ……」「天皇ハ……」という条文だとのこと)。

長くなるので結論だけ先取りしてしまうと、著者はここで、日本人は理解の主体を最初から「外部」に置いていると指摘している。読み手である一般の日本人は、そこに書かれていることをちゃんと理解しなくてもよい、いやむしろ「真の理解を拒絶したまま受容」している、というのである。

第二講のテーマは「コミューン主義」だ。ここでは、われわれのコモンズ(共有地)として「外的自然(環境全般)」「内的自然(遺伝子、DNA)」「文化的コモンズ(人為の産物すべて)」の3つを挙げ、それぞれを戦場として資本主義と社会主義が戦っていることを指摘する。さらに4つ目の「戦場」となるのが「格差と貧困」だそうだ。

著者は、ここにさらにキリスト教の3宗派(カトリック、カルヴィン派、ルター派)の影響を重ね合わせ、宗教と福祉制度の強力な相関関係を暴きだしていく。その奥底にあるのは、「特異性と普遍性」の一筋縄ではいかない関係だ。

ここでもまた、一足飛びに結論部分だけを取り出すと(言い訳めくが、著者の論証プロセスは非常に要約が難しい。複雑かつどの部分も割愛しづらいロジックなのだ)、資本主義を超える「コミューン主義」が登場するとき、特異性こそが普遍性となるというある種の逆転現象が生じる。そしてそこではプロレタリアートこそが普遍性である」(p.175)という状況が生じるという。

さて、本書は東日本大震災の前に行われた講義をもとにしているが、まるで311以後の状況を見ながら書かれているかのようなのが、第三講〈リスク社会の(二種類の)恐怖〉だ。ここでは、リスク社会では「中庸」こそもっとも愚かしい結論となる、という、これもまたいささか意外で唐突な指摘がなされている。

どういうことか。リスクはその性質上、起こる頻度が極めて低く、起きた場合の損害が甚大である、という側面をもつ。とすると、これに「中庸の」「そこそこの」対応策を講じることは政策としては下の下ということになる。なぜなら、そうした事象(たとえば大規模災害など)は、滅多に起きないから起きない期間は投じたコストがムダになるし、ひとたび実際に起きれば、とてつもない被害をもたらすため、中途半端な対応策では結局間に合わないからだ。

いささか中途半端な長さの第四講(終わり方もなんだか尻切れトンボだ)は、なんと世界同時革命を提唱するというとんでもない内容になっている。もっとも、ここで展開されている革命論は相当難解だ。なにしろ革命とは第三者の審級を新たなものに置き換える社会的操作である、というのだから。

だが今のタイミングで読んで私が一番びっくりしたのは、東日本大震災後に書かれた「あとがき」で、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』を参照しながら、こう言い切っているくだり。

「しばしば、災害と革命は不可分なのだ」(p.308)

さて、先ほど「第三者の審級」というコトバを出したが、これは著者の本には必ず出てくるキーワード、キラーワードである。本書でも、このコトバが全体を貫く縦糸になっている。

意味は「規範が成立し、社会秩序が成り立つ上での不可欠の論理的条件」(p.58)。つまり規範とかルールとか社会秩序とかの上位概念、メタ概念ということもできるだろう。分かりやすく言えば「神様」のような存在だと思えばよい。

第一講では、日本人は外部(お上、西洋等)に「第三者の審級」を置いているという指摘があった。もとより日本にとって、長きにわたり中国が、その後は西洋が、そしてアメリカがこの「第三者の審級」の役割を引き受けてきた。その分、日本人はあらゆることを本当にはわかろうとせず、真の理解を外部の存在に委ねてきたと著者は言うのだ。

第三講では、リスク社会とは「第三者の審級の不在」つまり「神のいない世界」なのだ、という指摘が衝撃的だった。タイトルの「二種類の恐怖」もこれに関連する。第一の恐怖は、第三者の審級(神など)の怒りを買ったり、第三者の審級がいなくなることへの恐怖。それに対して第二の恐怖は、そもそも第三者の審級が不在であることの恐怖なのだ。

著者はこの両者を比較して、前者に比べて後者の「不在の恐怖」のほうが大きく、それは「直面することすら困難な恐怖」(p.235)であると形容する。こうした恐怖に直面せざるを得なくなった時、人間はそれでもその恐怖を否認する。記憶や理性的な判断をねじまげてでも。そして、この「不在の恐怖」を受け入れた者こそがキリストである、というのである。神であるところの自らの死を受け入れることによって……

夢は時折、瞬間的に「真実」を垣間見せることがある。本書はこの社会そのものが見ている夢から、そこに告示されている「真実」を言語化し、冷凍保存する、言い換えれば、「夢からの視点」によって、社会の見え方、捉え方をあざやかに変転させる一冊なのだ。