自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1589冊目】田村芳朗・梅原猛『仏教の思想5 絶対の真理〈天台〉』

絶対の真理「天台」―仏教の思想〈5〉 (角川文庫ソフィア)

絶対の真理「天台」―仏教の思想〈5〉 (角川文庫ソフィア)

難しいわかりにくいとボヤキながら読んできたこのシリーズも、やっと「インド編」4冊が終わり、「中国編」に辿りついた。最初のテーマは「天台」。

ただしこの本、単に中国仏教の紹介だけにとどまっていない。天台智ギ(ギのフォントがないのでこう書く)の思想を中心としつつ、インドに生じた大乗仏教の流れ、さらには日本伝来後の動向も含め、印・中・日の広大な「三国伝来」の流れを俯瞰する一冊なのである。

そもそも、本書の中心テーマである天台思想そのものが、いわば仏教思想の一大センターであり、インドにはじまり日本まで流れ込んできた仏教史の結節点であるということでもある。梅原氏は第3部の最初の方で、このように整理している。

「中観や唯識は、あまりにインド的な仏教である。禅や浄土はあまりに中国的な仏教である。しかし天台は、インドに起こった大乗仏教によって作られた経典『法華経』の上に、天台智ギによる哲学的思弁を加え、そして最澄によって、日本仏教の基礎とされた仏教なのである」(p.271)

したがって、ここで本書の内容を紹介しようとすると、大乗仏教が生じた「そもそも論」から説き起こし、日本の仏教思想の基盤となった天台本覚思想にまで至らなければならない。しかしそれではあまりにも膨大後半になりすぎるし、それぞれが相当ややこしい事情や論理をもっているため、ここでは、天台智ギの思想のしかもごく一部をかいつまんで紹介するだけにとどめたい。

まずは、2つ(というか、2セット)のキーワードが重要だ。「空・仮・中」「蔵・通・別・円」である。中でも「空・仮・中」が特に重要と思われるので、ちょっと説明を試みる。合っているかどうかはあまり自信がない。

「空」とは、本書では「自己の狭い執われた見かた、考えかたを捨てて、ものの真相をものそのものに即して、ありのままにつかむこと」(p.86)とされている。

一方、現実の相が「仮」である。本来、いわゆる小乗仏教の教えでは「仮」を離れて「空」に至ることが強調されたが、これだけでは「空」への執着が生じる。そのため、大乗においては、現実・現世たる「仮」の世に降り立つ菩薩が重要視される。ところが、これでは今度は「空」が軽視される。

そこで「仮にあって空を忘れず」ということで「中」が強調されたということになる。「中」とは一種のバランス感覚のような感じだろうか。

ここで著者が挙げているのが、自転車のたとえである。最初に自転車に乗ろうとする時は、「自分」が「自転車」を乗りこなそうとし、失敗して転んだりする。そこでは「自分」と「自転車」は別々のものとして意識されている。

ところが、練習しているうちにいつのまにかふっと乗れるようになっている。その時、自分と自転車は一体的な感覚によって捉えられる。これを不二・一体という。だからといって、実際に「自転車は自転車、人は人」であることには変わりはない。両者は客観的にはあくまで別々のものなのだが、主観的には同一体となっている。どうやらこういう感じが「即空即仮即中」であるということらしい。乗馬でこれを例えた有名な文句が「鞍上人なく、鞍下馬なし」である。

さて、本書はこれにとどまらず天台の世界観、人間観についても広く触れているが、中で興味深いのが「悪」に関する議論であった。

宗教で「善悪」と言えば、たいていの場合悪を排して善に報いることが多いと思うのだが、天台智ギは「悪は是れ善の資なり。悪無ければ亦善も無し」(p.135)と言ったという。これを突き詰めると「仏は悪なり」ということになってくる。「仏に性悪あり、地獄に性善あり」(p.136)なのである。

この「善悪相即論」は相当に物議をかもしたらしいが、しかしそもそも「空」の思想に立ち返れば、これってきわめて当たり前の帰結なのだ。すべては関係の中に存在する、というのが空の根本思想だったはず。そうだとすれば、右があってはじめて左という概念が生じ、影があってはじめて光があるように、悪があってはじめて善があるのは、仏教的にはむしろ理の当然ではないのだろうか。

本書で指摘されているとおり、天台思想は華厳や禅などに比べるとあまりぱっとしない扱いを受けてきたように思う。日本で言えば、天台宗を日本に伝えた最澄より、同時期に真言密教を伝えた空海のほうがはるかに注目されている。しかし、大乗仏教はやはりここから始まり、ここを土壌として大きな枝を広げていったのだ。

日本だって、最澄がひらいた比叡山がその後の長きにわたって日本仏教界のセンターであり、本書で梅原氏が指摘しているように、親鸞道元日蓮の思想の根底には、天台本覚思想が流れていたのだ。にもかかわらず、「天台智ギ」の「ギ」の文字が常用漢字表はおろかフォントとして登録すらされていないというところに、なんとも情けないものを感じる。

批判の対象としてであるにせよ、やはり日本の仏教はここから始めなければならないのだろう。本書はそのためのガイドブックとしても使える、天台思想の入門書。ちなみに読む順番のおススメは、第3部→第1部→第2部。梅原氏の鉈でたたき割るように豪快な三国伝来仏教論から田村氏の緻密で詳細な天台思想解説に入るほうが分かりやすい。第2部の対談はけっこうややこしいことも話されているので、本書に関しては最後の方がよいだろう。

そして、本書を読んでいて興味を惹かれたのが、(呉智英氏が怒っていた)大乗仏教におけるブッダ思想の「改ざん」(よく言えば「編集」)のプロセスだ。方便論なんぞ、よくよく考えてみれば屁理屈もいいところだと思うのだが、しかしその上に大乗仏教の巨大な花が咲いたという事実は無視できない。特に「法華経」は、そのうちちゃんと読んでみたい。日本人だし。