自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1585冊目】砂原庸介『地方政府の民主主義』

地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択

地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択

国政と地方政治の最大の違いは、前者が「議院内閣制」であるのに対し、後者が首長と議会の「二元代表制」であるという点だ。

国政の場合、議会(国会)が政府のトップである内閣総理大臣を選ぶので、そこで意見の不一致が起こることは、少なくとも理論上はないといえる(その代わり二院制なので、衆議院参議院の「ねじれ」は起こる)。一方、地方政治の場合、行政のトップである首長と地方議会の議員は、それぞれが選挙によって選ばれるため、必ずしも一枚岩にはなりえない。

同じ有権者による選挙で選ばれている以上、首長と議員のどちらも、地域住民の利益を代表しているはずだ。しかし、その両者の間で、実際にはしばしば対立が起きる。そこにはどういうメカニズムが働き、その中でどのような政治過程が進んでいるのか。本書は、そのことを解き明かそうと試みた一冊である。なお、著者は主に都道府県の「知事」と「議会」を分析対象としているが、内容の多くは市区町村にもあてはまると思われる。

本書は著者の博士論文がベースになっているらしい。それだけに、単なる評論ではなく、仮説を立て、データを集めて分析し、論証するというプロセスが組み込まれており、数式を使った統計や分析の手法がバンバン出てくるので、そのあたりのリテラシーがないと完全に理解するのは難しいかもしれない(私のコトだ)。だが、結論部分はきちんと(文章で)書かれているので、そこをきちんと読み込めばだいたいのところは理解できるようになっている。

本書の分析でポイントとなるのは「現状維持点」という概念だ。これは「既存事業の廃止や政策分野間の資源配分の変更が行われず、以前に行われた決定が持続する状態」(p.19)を言い、著者はここからのズレを測ることによって、政策内容の変化を読み取ろうとしていく。

さて、先ほど述べたように、首長と議員はそれぞれ選挙で選ばれるため、どちらもその時点での地域住民の利益を反映しているはずである。にもかかわらず、両者の志向にズレが生じるのはなぜか。

以前は、党派性の違いによるズレが大きかった。代表的なのが、1960〜70年代のいわゆる「革新自治体」であり、革新勢力の後押しを受けてそのトップとなった首長であった。

ところが、こうした党派性の違いによる「ズレ」は1990年代以降影をひそめる。革新勢力が退潮、相乗り選挙が常態化する一方で、バブル崩壊による財政状況の悪化から「あれもこれも」から「あれかこれか」の政策選択の時代が到来したのがこの時期だった。無党派のいわゆる「改革派知事」がたくさん登場するのは、この少し後のことだ。

さて、こうした時代における「首長」と「地方議会」のズレを、どう考えるべきか。著者は選挙制度の違いに着目し、首長は「組織化されない利益を志向」するのに対し、地方議会の議員は「組織化された個別的利益を志向」するのではないかと仮説、検証する。地域全体から一人選ばれる首長はその領域全体の利益を薄く広く代表するのに対して、個々の地方議会議員は、個別の地域や業界の利益によって選ばれるため、こうした状況が生じるのではないかというのである。

特にこうした影響が大きくあらわれるのは、財政削減や行政改革に取り組む、いわゆる改革派首長が登場した場合だろう。特に首長のバックグラウンドが、役所内部や地方議会ではなく中央省庁やメディア関係者等であった場合、その傾向が顕著になるようだ。著者の言い方にならえば、こうした首長は「現状維持点から大きく離れた」政策を志向する可能性が高いからである。これに対して、議会は選挙があってもそれほど大きくメンバーが入れ替わるワケではないので、どうしても既存の政策、自分たちが決定してきた予算や計画の枠組みから逃れられない。

こうして首長と議会の対立が起きるのだが(本書は田中長野県知事時代のダムをめぐる攻防、青島東京都知事時代の世界都市博をめぐる攻防、新規課税をめぐる攻防をそれぞれ取り上げている)、実際には制度上、二元代表制といっても首長の権限のほうが強いため、首長が頑として意志を曲げなければ議会の側が屈服するしかない。

特に本書を読んで「なるほど」と思ったのは、議会は新たな予算を承認するかどうかの決定権を握ってはいるが、いったんついた予算の執行停止については、ほとんど何もできないという指摘であった。だから、新規事業を加えるという予算増加型の政策に対しては議会はいろいろできるものの、ダム開発や都市博の予算執行凍結のような「財政緊縮型」の改革については、議会のできることはかなり限られてくる。

また、改革派知事がなかなか長続きしない理由として「政治的なアクターが永続的に決定の「外部」に立ち続けられないことに起因すると考えられる」(p.204)という指摘がなされている。これは、鋭い。確かに、最初は外部からやってきて政策に大ナタを振るうことができても、次年度、次々年度以降は、自分が立ちあげた政策自体、予算自体が改革のターゲットにならざるをえない。言い換えれば、自分自身が「現状維持点」を作ってきてしまっているのである。

要するに、多くの改革派知事の業績というのは、良くも悪くも「外からやってきた人だからできること」なのだ、ということである。もっとも、これ自体は悪いことではあるまい。思うに、地方自治法が住所要件を首長に与えていないことの意義とは、こうした点にあるのだろう。水がよどみがちな「地域」にとって、首長は「マレビト」や「黒船」としての役割を期待されているのかもしれない。