自治体職員の読書ノート

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【1579冊目】鈴木健『なめらかな社会とその敵』

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

私はこの本を、ある種のフィクションを読むように読んだ。小説や物語として、ということではなく、一つの非現実的な思考実験として、ということだ。そういうふうに読むかぎり、本書はなかなか面白かった。

著者のいう「なめらかな社会」とは、変化のないフラットな社会ではない。社会には「白」の部分も「黒」の部分もあるのだが、それが線を引いたように急に変わるのではなく、少しずつグラデーションをもって変わっていくような状態の社会のことだ。

線を引いたようにある時点でバッサリと「白」が「黒」に切り替わるような社会を、著者は生物の細胞のメタファーで描き出す。それは「膜」が「核」を取り囲んでいる状態だ。多細胞生物は、こうした細胞が合わさってできている。

しかしその背景には、実は複雑な反応ネットワークがある。著者はこれを「網」と呼び、この「「網」こそが世界の本性であって、膜や核は仮の姿としてあるいは一時的な現象として生まれてくる」(p.19)と言う。同じように社会も、一見非連続的な断層があるように見えても、本質的には関係性のネットワークでなめらかにつながっている。本書で行われているのは、そうした本来の社会のありようを取り戻す試みであるということらしい。

そのために著者が導入を提唱するのが伝播投資貨幣PICSY」「分人民主主義divicracy」「構成的社会契約論」である。その内容は複雑すぎてとてもここでは説明しきれない。ちなみになぜこれらが「複雑」なのかというと、なめらかな社会の実現には社会の複雑さを複雑なまま取り扱うことが必要であり、これらはそのためのシステムであるからだ。

そのためには情報技術とネットワークの利用が不可欠だ。人間の認知能力を超えたシステムであっても、それを動かすための仕組みをネットワーク上に構築することで、実現が可能となる。そこには、一定の秘密を担保するためのシステムも導入されるが、基本的には個人の「将来性」や「選好」や「ライフログ」等が組み込まれていくということになる。そうでなければ、これらのシステムは中途半端にしか機能しない。

貨幣には、その人の社会的な貢献の見込みが投資として織り込まれる。投票は、一人の人が投票先を配分し、「投票する人に投票する」こともできるようになる。個々のトピックに対して人々は好きなように投票できる。選挙で選ばれる専業政治家はいらなくなる。

私が一番びっくりしたのは、構成的社会契約論だ。この「ルソー以来の新たな社会契約論」においては「社会契約とは実際に行われる契約であり、プログラムがデバイスを通して物理世界に自動実行することになる」(p.221)という。例えば、タバコを吸ってはいけない場所でタバコを吸おうとしてもタバコ自体が着火しない。制限速度が40km/hなら、それを超えるスピードがそもそも出せない。

読んでピンときた方もおられるだろうが、これってほとんどSFの世界設定である。少なくとも私はそう感じた。ただし、そこで描かれるのは理想の未来社会ではなく、悪夢のディストピアなのであるが。

なぜなら、そこでは人間の認知機能を超えた緻密で複雑な管理システムが社会の隅々にまで行きわたり、刑罰による規範的な抑制に代えて、「物理的に」人間の行動を規制していくことになると思われるからだ。しかも統治者たる政府は、投票しているわれわれ自身。でもそれって、分散的なビッグ・ブラザーによって見えづらい形で隅々まで管理されたプログラムによって枠づけられた、「ゆるみ」も「あそび」もない完全なる管理社会なんじゃなかろうか。

もちろん、そうした社会を「望ましい」と感じる方もおられることだろう。だが、少なくとも私は、著者の描く社会像にはあまり共感できなかった。そこまで社会制度を緻密にもれなく設計してしまうことのほうが、私は息苦しさを感じる。古い世代と言われるかもしれないが(ただし、著者と私はほぼ同年代)、そこまでして「なめらかな社会」を実現する必要性が、私には最後まで理解できなかった。

だが、だからといって本書にダメ出しをするつもりはない。むしろ私は、この本はきわめて未来予見的であって、将来その先見の明を称えられることになるのではないかと思っている。特に「構成的社会契約論」のような「立法はプログラマー、行政は自動実行、司法は問題があったときのサポートになればよい」(p.219)というやり方を望ましいと思っている人は、けっこう多いのではないか。正しいことなんだから、それを物理的に強制して何が悪い?と言われれば、これはある意味正論で、こちらはグウの音も出ない。

すでにその予兆はあった。社会から闇が消え、タバコを吸える場所はどんどん少なくなり(私はタバコを吸わないが)、情報公開とコンプライアンスが幅を利かせ、悪は単純に排除されるべきものとなった。なめらかどころか、ここ数十年くらいの間に、社会はどんどん平板で奥行きのないものになってきた。

今後の社会の方向性は、間違っても「悪所」や「暗部」を復活させるのではなく、「なめらか」で「風通しのよい」「健全で透明性のある」社会の方だろう。しかも「いけないこと」は物理的に制約してくれるのだから、これはなんとも楽チンな世界ではないか。

そうした方向性をはるかに先んじて、その未来像を描いた本書は、ひょっとしたらそれなりの「古典」になっていくのかもしれない。ただ私が、SFではなくリアルな社会像として本書を読んで願うのは、そうなった暁には、わずかでもいいから「なめらかではない社会」を世界のどこかに残しておいていただけないだろうか、ということだ。どうせそういう社会になったら、公務員は「システム」と「プログラム」に置き換えられて軒並み廃業だろうから、PICSYもdivicrasyも届かないその場所で、ひっそりと余生を送りたいものである。