自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1570冊目】浜矩子『新・国富論』

新・国富論―グローバル経済の教科書 (文春新書)

新・国富論―グローバル経済の教科書 (文春新書)

最初に白状しておくと、本書の議論の下敷きになっているアダム・スミスの『国富論』はまだ読んだことがない。だから、著者のアダム・スミス解釈に対して批判する向きもあるようだが、そのあたりについて私は判断する資格がない。ここでは、あくまで本書の内容についてのみ書く。

さて、著者によれば、『国富論』の議論は「経済が国家の内部で自己完結する」ことが前提になっているという。例の有名な「見えざる手」についても、国家が余計な介入をしなければ、国内で生まれた付加価値は必ず国内に帰属して公共の利益を増進する、というような、つまりは「国家」という枠組みの内部の話であることが、これまた前提になっている。国家内部では、個々の自立した(私的な)経済的行為が、組み合わさってプラスの効果を生む。これを著者は、合成の誤謬ならぬ「合成の勝利」と呼ぶ。

ところが、現代はヒト・モノ・カネが国境を超えて移動するグローバル経済の時代である。ここでは、国家をまたいだ複雑な分業体制が出現する。

例えば本書で紹介されている液晶テレビの製造プロセスでは、部材工程、パネル工程、モジュール工程、セット工程のそれぞれの段階ごとに、製造メーカーや生産立地がモザイク状に組み合わさっている。

部材工程では、製造メーカーは米国39%、韓国14%、日本47%だが生産立地ベースでは日本35%、韓国34%、台湾32%。これが例えばセット工程では、日本32%、韓国25%、中国7%、オランダ5%、米国3%、その他27%だが、生産立地では日本8%、韓国4%、台湾1%、中国36%、アジア10%、北米・南米18%、EU23%となる、といった具合である。ちなみにこの研究は著者のゼミ生さんの学位論文とのことだ。

これはある意味、グローバルなレベルで最も合理的な生産体制が実現した姿といえる。だが、一見すると「全体最適」であるこのモデルが、個々の国の国民にとっては必ずしも「全員最適」にはならない、というところに、この問題の難しさがある。著者はこれを「解体の誤謬」と呼ぶ。アダム・スミスの言う「見えざる手」は、あくまで国家というワクの範囲内でしか成り立たないのである。

ちなみに、こうした「モノ」の流れに加えて、さらに厄介なのは「カネ」の流れ。リーマン・ショックが世界中の経済に激震をもたらしたのはその典型だが、面白いのは、この金融バブルの発端をつくったのはわが日本である、と著者が指摘しているくだりだ。

なんとなれば、長期不況下の日本は、量的緩和ゼロ金利政策によって、大量のジャパンマネーを供給し、それが日本の外に押し出された。いや、日本銀行としては国内でカネが回って国内経済が活性化することが狙いだったのだが、実際には、日本人の貯蓄は、利子収入がほとんど期待できない銀行預金から、FX取引や新興国株式の投資信託に向かって大量に流れ込んでしまったのだ。

結果としてジャパンマネーがグローバル金融市場に大量供給されることとなり、世界レベルでの「カネ余り」が起きた。世界全体の金融資産総額は、1990年時点で世界GDPの1.77倍だったのが、2007年には3.45倍にまで膨れ上がったという。カネ余りになれば価値は下がり、投資のためにお金を預かっているプロのトレーダーたちにとっても、それを運用して利益を上げることは困難になる。その中で登場したのが例の「金融工学」であり、その結果がリーマン・ショックであったのだ。

本書は、アダム・スミスの思想を紹介しつつ、こうした「ヒト」「モノ」「カネ」のグローバル化について論じているのだが、その「結論」として提示されるのが、グローバル経済時代の「新・国富論」だ。内容は非常に多岐にわたるので、くわしくは本書をお読みいただきたいのだが、自治体職員として着目すべきなのは、そこに「地域」の重要性が指摘されている点だろう。

国民国家時代の「見えざる手」に代わるものとして、著者は「差し伸べる手」を挙げる。国家の枠を外れ、グローバル市民としてお互いに手を差し伸べる。そんなグローバル市民の活動拠点となるのが「地域」であると著者は言うのである。地域の中で相互に支え合いながら、地球全体の経済に思いを馳せる視点が重要なのだそうだ。

率直な感想としては、グローバル市民という発想自体は、ここまで議論を進めてきた結論としては、いささかイージーな感が否めない。確かに私的利益の追求が結果として公益につながるというアダム・スミス式「見えざる手」の発想に限界があるのは確かだと思うのだが、しかし人は、そう簡単に国民国家の枠を超えて「地域から地球へ」と発想を広げることができるものなのだろうか。このあたりはもう少し踏みとどまって、じっくり考える必要がありそうだ。

まあ、そうした疑問はあるにせよ、本書の語り口はめっぽう分かりやすくて面白い。まるで上出来の「経済講談」を聞いているようだった。何より収穫だったのは、アダム・スミスのあの超長い『国富論』が読みたいと思わせられたこと。こういう「踏ん切り」を与えてくれる本というのは、私のようなナマケモノの読み手には実にありがたい。

国富論 1 (岩波文庫 白105-1)