自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1563冊目】吉村昭『破獄』

破獄 (新潮文庫)

破獄 (新潮文庫)

4回にわたって刑務所からの脱獄に成功した男、佐久間清太郎が本書の「主人公」。

脱獄モノと呼ばれる小説や映画はいろいろあるが、4回というのは並大抵ではない。最初の1回は油断につけこむということもあるだろう。だが2回目以降は、「以前脱獄した男」として、佐久間は徹底マークされる。にもかかわらず、その監視の目をかいくぐって、佐久間は脱獄に成功するのである。

脱獄のための準備がものすごい。食事に出される味噌汁を密かに貯めて毎日吹きかけ、手錠のナットや金属の窓枠を少しずつ腐食させる。便器に使われていた金属のタガを外し、釘で刻み目をつけてノコギリがわりにして床板を切る。発覚を遅らせるために、前々から規則で禁止されているにもかかわらず布団をかぶって寝る。看守に注意されると「そんなことを言うと、お前が当番の時に脱獄してやるぞ」と脅すので、看守は徐々に佐久間の言われるがままになり、布団をかぶって寝ることを黙認するようになってしまう。

人並み外れた体力、常識外れの根気、入念きわまりない準備、看守の心理を手玉に取り、あらぬ方向に注意を向けさせるテクニック。まさに脱獄のための才能がオールラウンドで揃った佐久間は、しかし脱獄はしても、案外あっさりとつかまってしまう。一度は廃坑に隠れるなどして長いこと見つからなかったが、脱獄後の「逃げ方」はあまりお上手ではないようだ。そのあたりのアンバランスさが、なんだか面白い。

そして、一見するとふてぶてしく反社会的にみえる佐久間が、読むうちになんとも寂しく、哀しく見えてくる。青森に妻子はあるが、属する組織もなく、脱獄以外に目立った才能も(たぶん)なく、頼るべき友もいない佐久間は、実はなんとも孤独な人間なのである。佐久間のぶっきらぼうで不敵な物言いの奥底には、そこはかとない人恋しさと、温かな人間関係への切望があるように思えてならない。

だからこそ、最後に入った府中刑務所で、思い切って佐久間を信頼し、人間として扱った鈴江に対して、佐久間は心を開き、最後まで脱獄しなかったのだろう。

それまでの刑務所が、手首の皮が剥けて蛆が湧くまで手錠をつけさせるように、がちがちに規則で佐久間を縛ったのに対し、鈴江は府中刑務所に着いたその日に佐久間の手錠を外してやり、それまでは決して認められなかった工場での作業やクリスマスでの慰問行事に参加させたのだ。このあたり「北風と太陽」じゃないが、いろいろ考えさせられる。

さて、本書は佐久間という天才的な脱獄囚を扱っていると同時に、実は戦時中から戦後にかけての日本の姿を、刑務所の中という特殊なアングルから切り取った作品ともいえる。

食糧不足にもかかわらず囚人には庶民より多くの食事が振る舞われていたこと、看守が足りなくなったため模範囚に他の囚人を管理させたため、刑務所内に腐敗が横行したこと、戦時中に刑務所に入っていた欧米人の囚人に対してはパンやバターなどが振る舞われたことなど、刑務所から見た戦中〜戦後史は意外な事実の連続。このあたりのリアリティが徹底しているからこそ、佐久間という人物の凄さが浮き上がってくるというものだ。

鈴江の尽力もあって、佐久間は最終的に仮釈放をゆるされ、逮捕と脱獄のループから抜け出すことができたという。人生のほとんどを刑務所で過ごし、最後は浅草の映画館で心不全により亡くなったという彼の人生とは、一体何だったのだろうか。

脱獄とは、佐久間にとって何だったのだろうか。刑務所でおとなしくしていれば、いずれ仮釈放になることは分かっていたはずだ。それでもあえて自ら自由を得る「脱獄」を選んだ佐久間の心理を考えると、なんだかいたたまれなくなる。

分厚く、深く、面白い。小説のお手本のような作品。オススメ。