自治体職員の読書ノート

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【1540冊目】末木文美士『反・仏教学』

反・仏教学―仏教VS.倫理 (ちくま学芸文庫)

反・仏教学―仏教VS.倫理 (ちくま学芸文庫)

仏教は、仏教だけ見ていてもよく分からない。本書は、サブタイトルに「仏教vs倫理」とあるとおり(ちなみに、もともと新書で刊行された時は、こっちがメインタイトルだった)、「倫理」をぶつけることによって仏教に新たな光を当てる一冊だ。

そもそも、仏教を含めた宗教は「倫理的」であるべきか。これは実はなかなかの難問であって、例えばブッダやキリストの教えの中には、明らかに現代的な意味での倫理に反するものも少なくない。しかし、それは倫理と仏教が相反するというより、いわば守備範囲が異なるためであるらしい。

「倫理はあくまで世俗の〈人間〉のルールの問題だ。むしろ、僕たちはつねに〈人間〉のルールに回収できない問題に直面しなければならず、そのほうがじつは大きな問題なのだ。〈人間〉の相互了解を超えたところで出会われるのが他者であり、なかんずく他者の中でも死者である。他者や死者との出会いからどのように出発できるのか。それが倫理を超えた超・倫理の問題である」(p.27〜28)

「他者」という言葉が突然出てくるので面食らうかもしれないが、本書の骨子は、この「他者」と「倫理」の関係を問うものと言っても過言ではない。ここでいう他者とは、理解不能であり、既存のルールや約束事にあてはまらない人間をいう。つまりは異質の存在である。

異質の存在がいるとき、共同体のルールやローカルな倫理観は通用しない。なぜなら、倫理とはそもそも、基本的にローカルでクローズドな「集団内のお約束」のことを言うからだ。

なお本書では、「文庫版増補」として、この他者論がさらに深められ、3つの層に整理されている。第一は「生きている他人という他者」で、これは「了解可能な倫理の領域と両界不可能な他者の領域にまたがっている」ものとされる。

面白いのは、この第一層の他者のなかに「自分自身」も含まれていること。自分のことなんて分かっていると思いがちだが、実は誰だって、自分のことが一番分かっていないものなのだ。

第二層に登場するのが「死者」だ。この世の約束事である倫理は、実は死や死者を扱うことが苦手である。死者は倫理の埒外にあるものなのだ。しかしながら、死や死者を完全に隠蔽することもできない。確かに忘れがちではあるが、私たちは自分がいつか死ぬことを認識するとともに、死者と関わりながら生きている存在なのである。

こうした、倫理の外にある問題を扱うのが、仏教を含む宗教だと著者は言う。そのため、非難されがちな日本のいわゆる「葬式仏教」は、実はもっとも宗教の根本の問題に迫ることができるはずなのだ。「死者との関わりという点で、日本の仏教はきわめて有利な位置にあるということができる」(p.188)という指摘は、葬式仏教の再評価であって、同時にこうした役割に無自覚な現代仏教への痛烈なメッセージになっているように思う。

そして、他者の第三層が「神仏」なのだ。神仏は死者以上に存在するかどうかよくわからず、世俗の倫理では到底扱うことができない。宗教の宗教たるゆえんがここにある、ということになるだろう。

本書はこうして、倫理の外側にあるものとして仏教を捉え直し、その位置づけを再評価する一冊だ。扱われているテーマはたいへん幅広く、神仏習合からナショナリズムヒロシマ靖国神社の問題にまで及ぶ。

特に、仏教関係の本で神仏習合廃仏毀釈について、仏教界側の責任にも触れてしっかり論じた本は、ちょっと珍しいのではなかろうか。適度にクリティカルで、至って明快で、なかなかに刺激的。面白かった。