自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1538冊目】呉智英『つぎはぎ仏教入門』

つぎはぎ仏教入門

つぎはぎ仏教入門

ここのところ、「死」を考えるための本を何冊か読んできた。

このテーマに関する本は、実のところたいへん多い。そもそも哲学や宗教のほとんどは、生と死を考えるところから発祥してきたと言ってよいのだから、このジャンルはほとんどが多かれ少なかれ関連してくる。特に、日本人の死生観を考えるにあたってゼッタイに外せないのは、仏教であろう。

なんてことを考えている時に、たまたま図書館で目についたのが本書なのだが、実はこの本、「入門」とは銘打っているものの、正直言って「入門書」としてはちょっとオススメしがたい。内容的には仏教の現状に対する批判本であって、仏教についてあまり知らない人がいきなり読むには、著者自身の独自の仏教観が前面に出過ぎているし、「入門」にあたる基礎的な知識の説明がほとんどないからだ。

そもそも、著者は仏教の専門家ではない。私はある時期、この人の本を集中的に読んでいた時期があるのだが、世の中の「偽善」や「通俗」をあげつらい、暴き立てるのが本領と言ってよい。あえてジャンル分けすれば批評家、評論家に入るのだろう。

その対象は民主主義(著者は「封建主義」を称揚されている)から平和運動フェミニズム等いろいろだ。以前は、その鋭い舌鋒が小気味よく思えたものだったが、今読むと、いちいち「敵」を想定してそれを批判するような書きぶりが、なんだか読んでいて疲れるのだ。う〜ん、私のほうが読み手として年をとったのかなあ。

本書で主にやり玉に挙がっているのは、大乗仏教。しかし、そこで「現代人は、大乗・小乗を対比して、大乗は進歩的ですばらしく、小乗は保守退嬰で劣っていると思いがちである」(p.49)のように書かれてしまうと、私なんぞは、えっ、そもそも「現代人」がそこまで仏教について知っているのかなあ、と思ってしまうのだ。しかもこの考えは国民国家・民主主義を疑うべからざる真理と思い込まされている怠惰な近代的良識によるもの」なのだそうだ。ううむ。そ、そうなのかなあ。

こういうスタンスは、なんというか仮想敵国を作っては攻撃するようなどこぞの大国を想像してしまい、ちょっとヘキエキなのだが、一方で著者ならではの鋭い視点も随所に見られ、仏教の見方として参考になる点も多かった。たとえば「生がある以上、必ず死はある。これが得心できないことが迷妄であり、この真理に目覚めることが「覚り」なのである。仏教の核はほぼこれにつきている」(p.32)なんて、専門家になってしまうと、かえってこういうざっくりした「言い切り」はできないものである。

また、仏教を「覚りの宗教」キリスト教「救いの宗教」と対比するあたりも、なかなかうまいコントラストだと思う。しかもこの議論が浄土教の特徴は、「覚りの宗教」である仏教を一神教の構造をもつ「救いの宗教に変容させたことである」(p.132)というふうに展開し、仏教の一派である浄土宗・浄土真宗とキリスト教の類似性という切り口に結びついていく。こういうところは非常に分かりやすい。

本書の主張は、ひとことで言うなら「仏教原理主義である。「釈迦に還れ」である。そのために著者は仏教の変容ぶりをこと細かく指摘し、それが釈迦の教えからどれほど遠ざかっているか明らかにしていく。

確かに釈迦の教えを忠実に受け継いだ初期仏教は、その後大きく変容した。特に中国に伝来した折、中国人の現実主義的傾向や「孝」の価値観にあわせて仏教の再解釈が行われた。これが日本にも伝わっているのだから、日本仏教には中国思想がかなりの程度ブレンドされていることになる。

このことをどう理解するかはなかなかの難問だが、私が思うのは、だからといって仏教が「釈迦の原点」に還ることは本当に可能なのだろうか、ということだ。妻子を捨て、親をも捨てて脱俗するブッダの思想は、実際のところかなり苛烈で反倫理性、反道徳性を強く帯びているものだからだ。

このあたりはキリスト教も、原点のところで同じような苛烈さを持っているのだが、それをいわば歴史の中で薄め、変容させ、人びとの社会生活とある程度調和できるようにしてきた結果、仏教やキリスト教はこれほどの巨大宗教になったのだ(キリスト教の「原理主義」の方々は、アメリカなどではそれなりの規模になっているが)。

これを釈迦の原点に戻すということは、仏教自体もいわばマイノリティの「危険な」宗教に戻すということだ。釈迦の教えという劇薬を、原液のまま飲み下すということだ。もちろんそうした試みを行う人びともいて良いだろうが、これほどの規模になってしまった仏教が、ひとしなみにそんな先祖返りができるとは思えない。

なので、本書の主張は確かに説得力はあるしユニークなのだが、あくまでひとつの思考実験として受け止めるのが適当ではないかと思うのだ。宗教とは本質的に危険物であり、劇薬である。このことを忘れた原点回帰論は、無邪気であるだけにかえって危険であろう。