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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1522冊目】ウラジーミル・ナボコフ『ナボコフの文学講義』

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 上 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

ナボコフの文学講義 下 (河出文庫)

かの『ロリータ』の著者、作家ナボコフに、文学の読み方を教えてもらおう、という一冊。

元になっているのは、アメリカの大学で行った講義の草稿。オースティン、ディケンズフローベール、スティーヴンソン、カフカプルースト、ジョイスが取り上げられている。中ではスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』がややB級感漂うが、おおむね世界文学のトップレベルに名を連ねる大作家の作品ばかり。正面突破の正統派文学論である。

この講義の特徴を一言で言えば「作品中心主義」。時代背景や作家の人生、当時の風潮などの周辺知識は「とりあえず」視野の外に置き、ひたすらに作品そのもの、それも徹底して細部へと向かっていく。舞台となっている建物の間取り図や年表などを丁寧に書き起こし、カフカの『変身』ではザムザが変身した虫のイラストまで登場する。

かと思うと不意に作品全体を俯瞰し、全体の中でのひとつのフレーズの位置づけ、パターンの反復に注意を促す。さらには一曲のソナタやシンフォニーを読み解くように、主題と展開、主旋律と対位法といった手法までが持ち込まれるといった具合。虫の目と鳥の目を自在に往還する、「本読みの達人」としてのナボコフの凄みが知れる。

時代背景や作家のバックグラウンドをシャットアウトしているのはひとつの「方法」として割り切るしかないのだろうが、正直、そこのところには疑問も残った。小説には、そうした作家自身も意識していない作家自身の、あるいは時代の「しみ」のようなものが、どうしようもなく滲み出ているものなんじゃないのか。そこんとこは読み解きの対象、あるいはヒントにしなくてよろしいのであろうか。

とはいえ中身だけの勝負でこれだけ「読ませる」(聞かせる?)文学講義というのは、やはり並ではない。ちなみに私は本書を読んで、特にプルーストを読んでみたくなった。あ、あとナボコフ自身の小説も。もっともその時の「読み」には、本書の講義も含め、ナボコフ自身の人生や時代背景も入ってくるだろうが。

「文学というものはなにかに関するものではない。それはそれ自体であり、それ自体が本質なのだ」(上巻p.288)

本書のエッセンスは、おそらくこの言葉に尽きる。そして、われわれ自身の「読み」もまた、この言葉によって試されているのである。

ロリータ (新潮文庫) ジーキル博士とハイド氏 (角川文庫) 失われた時を求めて〈1〉第一篇 スワン家の方へ〈1〉