自治体職員の読書ノート

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【1520・1521冊目】小川洋子『最果てアーケード』『ことり』

最果てアーケード

最果てアーケード

ことり

ことり

小川洋子の小説を読む前には、ふつうの小説を読むのとちょっと違う気構えが必要だ。

読み始めるとすぐ、時間が止まったような別世界に包み込まれるのだから、読む前にはバタバタした日常の喧騒を忘れていなければならない。小さく弱いものたちのかすかな声を聴き逃さないよう、耳を澄ませておかなければならない。世界の隙間に隠れた秘密がこっそりと明かされるので、見えないものを見るための視力を磨いておかなければならない。

『最果てアーケード』は、世の片隅で忘れ去られたようなさびれた商店街が舞台となった連作短編集。とはいえそこに並ぶのは、中古レース屋、義眼屋、プレーンドーナツしか作らない輪っか屋、レターセット等を扱う紙店、ドアノブ屋、勲章屋、軟膏屋と、なんともニッチでマイナーな店ばかり。言うまでもなくこの商店街は「活性化」にはまことに縁遠く、ただひたすら、静かに客を待ち続ける。

ほとんどの客は「こんなもの、誰が買うの?」と思い、通り過ぎるだけである。「世界の窪み」のようなこの商店街に訪れるのは、「はるかな道のりの果て、ようやく求めるべき品に巡り合えた」(p.10)人だけなのだ。

店はその品を求める人をじっと待ち続け、客はその品だけを求めてそこを訪れる。なんと幸福で充実した関係だろう。しかし、本来、ものを商うとは、そういうことではなかっただろうか。本書に登場する店主と客の間は、分かり合った人たちだけが味わえる充足感に満ちている。

そして、本書にはお金に関するシーンがほとんど出てこない。それぞれの品物(「つましい少女が一枚だけ持っていたよそ行き用ブラウスの襟を縁取る手編みのレース」とか「雄ライオン彫刻付きピューター製ノブ」とか)について、それが高価なものかそれほどでもないか、くらいのことは書いてあっても、具体的な値段は出てこないし、客が店主にお金を払うところも、たぶん一度も出てこなかったのではないか。商店街が舞台の小説なのに!

出てくるのは、待ち続けた品物が探し続けた人の手に渡る嬉しさであり、充足感だけ。しかしそれが全然奇妙ではなく、むしろ自然なカタチに思えてくるから不思議である。ちなみに読んでいてギョッとしたのが、店ではないが、遺髪でレースを編む「遺髪専門編み師」の存在だった。う〜ん、どこからこういう発想って出てくるんだろう?

最新長編である『ことり』は、「小鳥の小父さん」と呼ばれた男性の死に始まり、その人生を写し取っていく物語。

最初に出てくる小父さんの兄にまずびっくりする。なんとこの兄さん、どこの言葉でもない独自の言語を話し、その内容は弟である小父さんしか理解できないのだ。「ポーポー語」と呼ばれるその言葉は、明らかに鳥のさえずり言語。以前読んだ著者と岡ノ谷一夫氏の対談本で岡ノ谷氏が「さえずり言語起源説」を紹介していたが、本書にはそれが見事に組み込まれている。

小鳥たちをこよなく愛した兄と、その兄への愛情を通じて小鳥への愛情を育む弟。兄弟愛の話かと思いきや、兄は先に死んでしまい、取り残された弟の「小父さん」は、独自に鳥への愛情を追求する。

それが図書館で鳥の本をひたすら読み続けることであり(そこでちょっと気になる司書の女の子に出会い)、幼稚園の鳥小屋の掃除をボランティアで続けることであり、傷ついたメジロを治療して飼うようになったことであった。人との付き合いを苦手とする小父さんは、ひたすら鳥との関わりの中に身を隠し、ひっそりと暮らそうとする。

そこに世間の干渉めいた動きや事件がいろいろ起こるのだが、その中で小父さんは世間からひっそりと隠れ、鳥を愛しつつ、兄の面影とともに暮らすことを切望する。このへんはいかにも小川洋子的な人生観というかなんというか、なのだが、小父さんの造形がしっかりしているから、こういう世間一般からみると後ろ向きにしか見えない生き方も、ああ、この人にはこの生き方が一番いいんだろうなあ、と思わせられる。

本書のラストは小父さんの死の直前までを語り、冒頭の死のシーンにつながる。そこで私は、心から納得した。ああ、小父さんの一生はよい一生だった、と。いやあ、良い本だった。特にこんな文章、小川洋子にしか書けません。

「(耳を澄ませている小鳥の羽が震えていることに対して)小鳥についてよく知らない人は怖がっているのだろうと勘違いするが、本当はそうではない。他の誰かが思うことよりずっと多くのことを彼は聞き取っている。小さな場所で、忍耐強くひたすらじっとしている者にだけ届けられる合図を、受け取っている。その啓示の重さに、ただ心を震わせているだけなのだ」(p.73)

言葉の誕生を科学する (河出ブックス)