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自治体職員の読書ノート

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【1511冊目】櫻田淳『「常識」としての保守主義』

「常識」としての保守主義 (新潮新書)

「常識」としての保守主義 (新潮新書)

本書のベースになっているのは、なんと自由民主党機関紙『週刊自由民主』への連載原稿。ちょうど民主党への政権交代をはさんでの連載で、それだけに自民党の「拠って立つべき場所」を示そうという熱意と気概が感じられる一冊になっている。

とはいえ、保守主義とは何かと言われると、なんとなく分かりにくい。本書でも指摘されているように、「右翼」や「ナショナリスト」「タカ派」とどう違うのか、スッキリ説明できる人がどれくらいいるだろうか。本書はそうした分かりにくさをすっきりと整理し、非常にシンプルな形で「保守主義」の正体を明らかにしてみせた。

そもそも保守主義のベースにある思想は「人間の「理性」を懐疑し、その限界を認識すること」(p.19)であると著者は言う。したがって、理念や理想に基づいて一挙に社会を改革する「革新」は、保守主義の採るところではない。ある時点における人間の理性で捉えるには、世界の現実は複雑で理解しがたいものであると、保守主義では考える。

したがって保守主義では「変革」より「適応」が重視される(p.50)。社会を造り替えるのではなく、変化した社会に「合わせる」のである。たぶん、保守主義の分かりにくさの一因は、こうした特性ゆえに、はっきりした「理念」や「目標」を提示しないところにあるように思う。だが、著者に言わせればそもそも保守主義とは「そういうもの」なのである。

そのために必要なものは何か。著者が強調するのは「中庸」のバランス感覚と、伝統や慣習の重要性だ。保守主義は伝統重視であるというのは、確かにその通りだ。しかしそれは、単に昔のやり方にしがみつくというのではなく、長年にわたり多くの人が従ってきたやり方のほうを、一人の人間のすぐれた理性より信頼するという基本スタンスに基づくものなのだ。

さて、冒頭で書いたように本書は自民党の機関紙に書かれたが、では自民党が本書に書かれたような「保守主義」の政党であるかというと、実はやや疑問符が残る。特に田中角栄に代表されるように、高度成長期の自民党は日本の伝統的な風景を破壊してしまった。

社会主義政党が特定の階級利益を代表するのに対し、保守政党は国民全体の利益を代表する、という著者の指摘も、少なくとも日本の現実からはズレている。むしろ自民党を支えてきたのは、それこそ農協や郵便局や産業団体などの個別利益を追求する団体であった。本書の定義に照らすと、ひょっとすると自民党は結党以来一度として「保守政党」ではなかったのではないか、とさえ言いたくなる。

ちなみに、細かいところで本書には気になる記述がいくつかあった。例えば「十九世紀の帝政期におけるロシア芸術の豊饒さに比べれば、ソヴィエト共産主義体制下に登場した芸術作品が、総じて貧相なものであったのは、疑うべくもないのである」と書いた直後に「こうした事情は、文化の豊饒さが人々の「自由」に裏付けられた多様な活動に支えられることを示唆している」と書いているくだり(p.41)には目を疑った。

ええと、帝政ロシアにあった「自由」って、果してどういったものをイメージしておられるのでしょうか。農奴制度が存続し、農民反乱と無政府主義者や革命主義者への弾圧が横行し、ドストエフスキー社会主義サークルへの連座を問われてシベリアに送られた時代ですよねえ。う〜ん……。

そもそも、自由が文化の豊饒さに結びつくというのはきわめて「アメリカ的」価値観であるように思う。ルネサンス期のイタリア、バロック期のヨーロッパ、唐代の中国、安土桃山時代の日本、果して民衆にどれほどの「自由」が認められていただろうか。自由は確かに重要な価値であるし、自由な社会で花開く文化があることも否定しないが(例えば日本の元禄文化)、それでもあえて、自由と文化は少し分けて考えたほうがよいのではないかと思う。

また国家に関しては「ベネディクト・アンダーソンによって「想像の共同体」と呼ばれた事情が示唆するように……」(p.88)とあるが、確かアンダーソンが想像の共同体として名指ししたのは「民族」であり、譲っても「国民国家」であったのではなかったか(もちろん「国民国家」と「国家」はイコールではない)。

いずれも大筋には関係ないところなのだが、自分が知っている数少ない分野で気になる部分がポロポロ出てくると、なんだか他の場所も心配になってしまう。全体的な内容は非常に明晰でよくまとまっているだけに、そのへんがちょっともったいなかったかな。