自治体職員の読書ノート

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【1503冊目】『墨子』

墨子 (ちくま学芸文庫)

墨子 (ちくま学芸文庫)

墨子は前から気になっている思想家だ。諸国が相争う春秋時代末期の中国にあらわれて他人を広く愛する「兼愛」、専守防衛に徹する「非攻」といった当時としては異色の思想を唱えた。しかも、一時は儒家に並ぶ一大勢力を誇ったにも関わらず、忽然と消えてしまった。いったい墨子とは何者だったのだろうか。

本書は森三樹三郎氏のたいへんわかりやすい日本語と充実した注釈で、墨子思想のエッセンスに触れることのできる一冊。時代背景や墨子を中心とした教団の様子などの周辺部分については別の本で補う必要があるが、肝心のテキストに関しては、少なくとも「墨子入門」としては、おそらくこの一冊でだいたい足りると思われる。

読んでみて一番意外だったのは、墨子思想の根幹に、ある種の唯一神信仰的な要素があるということだった。それを墨子「天の意志」と言い「天帝」と言う。だが、天の意志にすべての根源を求め、そこから芋づる式に思想のロジックを組み立てていくなんて、まるでキリスト教的であり、広く言うなら一神教的ではないか。

なぜ人は、天の意志に従わなければならないか。墨子は次のように言う。「かようにして、もし天の欲することを行なわないで、天の欲しないことを行なうならば、天もまた人の欲することを行なわないで、人の欲しないことを行うであろう。それでは、人の欲しないこととはいかなることであるか。それは疾病と禍崇(たたり)である」(p.104)

もう完全に旧約聖書の世界である。天への絶対服従なのだ。もちろん、墨子もすぐれた政治の範を古代の聖王たちに求めるのだが、それも聖王たちの為政が天の意志に叶っており、それゆえに天が繁栄をもたらしたというふうに考えていく。しかも、天の意志はあまねく万民におよび、いっさいの区別を行わない。「兼愛」はいわば、そうした天の意志を人がなぞる行為なのである。

だから墨子の思想を一点で支えているテコの支点は、実は天=神の実在論なのだ。そのため、本書でいえば明鬼編において、墨子は天に相当する鬼神の存在をしつこく論証しようとしているのである。もっとも、それは例えば誰々が鬼神を見たといっているからいるに違いないとか、文献にこれこれこういうカタチで載っているからとかそういった程度ではあるのだが。

とはいえ、キリスト教が何百年、何代にもわたってこの問題に取り組んでいるのに比べると、わずか一代でここまでの思想を組み上げた墨子はやはり尋常の存在ではない。しかも墨子は思想だけの存在ではなく、実際に要請を受ければ戦争を請け負い(もちろん「非攻」だから防御側限定だが)、相当な強さを発揮した。このあたりはずいぶん前に読んだが、酒井賢一の小説『墨攻』や、森秀樹によるその漫画化作品があるので、そっちを読んだ方がイメージが湧くと思う。

ちなみに本書を読んでいてたまらなく面白いのは、墨子による例え話の巧さである。しかも墨子のやり方は、問いに対して巧みな反問によって答え、それによって相手に自ら気付かせるというもので、これが抜群に巧い。まるでソクラテスの問答を読んでいるかのようなのだ。例えば、斉王との対話はこんな感じ(p.219〜、一部改変)。

墨子「今ここに刀があって、人の首を試し斬りしてずばりと断ちきれれば、鋭利な刀といえるか」

斉王「鋭利だと言える」

墨子「さらに多くの人を試し斬りしてずばりと断ちきれれば、どうか」

斉王「鋭利だと言える」

墨子「なるほど刀は鋭利だろう。しかし、誰がその災いを受ける(←非難を受ける、くらいの意味か)のか」

斉王「刀は鋭利と言われても、試し斬りした者が不祥(よくない、不吉)である」

墨子「他国を併呑し、軍隊の士卒を失い、人民を殺すような場合は、誰がその不祥を受けるのか」

斉王「……私がその不祥を受けることになる」

諸子百家の中でも、墨子はもっとも謎めいた一団だ。儒教ほど普及せず、老荘ほど突きぬけておらず、しかしその思想の内容には、年月による風雪をまぬがれた分、現代にも通じる新鮮さがある。だいたい自らは攻めず、攻められれば難攻不落なんて、なんともカッコイイ連中ではないか。

墨攻 (新潮文庫) 墨攻 (1) (小学館文庫)