【1500冊目】真木悠介『定本真木悠介著作集1 気流の鳴る音』
- 作者: 真木悠介
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/10/11
- メディア: 単行本
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読むうちに、今までとまったく違う世界が見えてきた。忘れられない一冊になりそうだ。
「気流の鳴る音」「旅のノートから」「交響するコミューン」の3部構成だが、圧巻はカスタネダとドン・ファンの対話をもとにした「気流の鳴る音」。メキシコ・インディオのドン・ファンが語る底知れない知の奥行きが、人類学者カスタネダと、さらには著者自身の目を通して記される。
ドン・ファンの思想を、本書は4つの段階に整理する。第一は「カラスの予言」、第二は「世界を止める」、第三は「統禦された愚」、第四は「心のある道」。なんのこっちゃ、と思われるだろうが、まあ、もうすこし我慢されたい。
「カラスの予言」では、大きなカラスが鳴きながら頭上を飛ぶのを見て、ドン・ファンが「あれは前兆だ」と言いだす。カラスは人間に、野原の場所で良い場所と悪い場所を教えてくれるというのだ。
ここで、動物の行動を予兆として読み取るという行為は、単なる知識にとどまらない問題をはらんでいる。それはむしろ自然に対する感覚であり、自分自身を含んだ「全自然の一片として感受する平衡感覚の如きもの」(p.45〜46)である。
そこでは自己と他者、生と死、ヒトとモノといった区分けは意味をもたない。問題は、カラスの言葉や風の声、コヨーテの声を聞く耳をコチラが持つかどうか、なのだ。
こうしてカラスの予言を聞くことができるようになったら、次は「世界を止める」だ。ここでは世界の理解を根底からやり直すことが求められる。もともと私たちの世界把握のしかたは、ある「特定の型どり」をもっている。ここでは世界と自己は「蝶つがいのように双対して存立」している。こうした世界−自己のセットは、いったんかたちづくられると「それ自体の自己完結的な「明晰さ」のうちに凝固」する(p.106〜107)。
これをドン・ファンは「耽溺」と呼ぶ。そして、そこから抜け出すためには「意志」をもって世界の自明性を突き崩し、自己と世界をふたつながら超えていく必要があるというのである。
ここで強烈だったのは「目の使い方」のレッスンだった。重要なのは「焦点をあわせないで見る」こと。なぜなら、焦点をあわせる見方では、誰もが「自分の知っていること」だけを見てしまうからだ。一方、焦点をあわせない見方とは「予期せぬものへの自由な構え」だという。それは「世界の〈地〉の部分に関心を配って「世界」を豊饒化する」と(p.91)。
こうして世界−自己の呪縛から解放されたら、次は「統禦された愚」である。これは、ここまでのプロセスがいわば世界からの離脱であったのに対し、あらためて世界をつくるという段階にあたる。
そのために必要なのは「自分の世界の項目を選び出すこと」(p.119)。いったん離れた世界に戻ってくることだ。そのためには「コントロールされた愚かさ」が必要なのだという。ここで「世界をつくる項目」を選び出すための一般的な基準となるのが、第4の「心のある道」だ。
ここでドン・ファンは、カスタネダに対して「おまえは幽霊だ」と言う。なぜか? 道を歩いている彼の魂は、どこか遠くの「目的地」にあるからだ。道を歩く彼自身からは、魂が抜けてしまっているのである。
ここで著者は芭蕉のたとえを挙げる。松島を目指して旅立った松尾芭蕉は、目的地の松島ではひとつの句も残さなかった。なぜか。「松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけ」だったからだ。
「芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、「奥の細道」そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ」(p.126)
本書でもっとも身につまされたのは、このくだりだった。芭蕉の魂は常に道中にあった。だからこそあれほどの名句を次々に繰り出せたのだ。ひるがえって、私の魂は「今、ここ」にあるだろうか?
「生きることの「意味」がその何らかの「成果」へと外化してたてられるとき、この生活の「目標」は生そのものを豊饒化するための媒介として把握され、意味がふたたび生きることに内在化するのでないかぎり、生それ自体はその意味を疎外された空虚なものとなる」(p.132)
こうして「出来合い」の世界からいったんは解き放たれたカスタネダは、ぐるりと回って世界に回帰する。しかしそれは今までとはまるっきり「別モノ」「別次元」の世界である。ホンモノの生である。
人生観も世界観も、本気で読めば根こそぎ変わる一冊だ。スピリチュアル系と思って敬遠していたカスタネダの著作も読んでみたくなった。ちなみにカスタネダの著作に対しては、ドン・ファンが本当に実在していたのか疑問を呈する向きもあるらしいが、問題はその中身。少なくとも本書を読む限り、この思想は「本物」だ。