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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1497冊目】加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

東大文学部で日本近現代史を教える著者が、私立栄光学園の中学生・高校生20名ほどを相手に行った、5日間の集中講義の記録。一方通行の「講義」ではなく、生徒に質問をばんばん飛ばし、その回答を受けて一緒に考えていくという、ライブ感あふれる「実況中継」だ。

生徒さんは歴史研究部のメンバーが中心ということで、水準はそのへんの大人よりハイレベル。単なる知識だけではなく、思考力も相当なものがうかがえる。答えを受けた著者の反応も、想定した「正解」だけを押しつけるのではなく「それもあると思う」「それは〜〜という理由でありえない」など、非常に柔軟で的確だ。先生自身に相当な実力がないと、こういう対応はなかなかできない。

しかし、なぜ著者は生徒に対して「問い」を発しつづけたのか。もちろん「生徒の目を覚まさせておく」というような実際的な意味もあったのかもしれないが、本書の序章を読むと、こうした著者のスタンスには、実は歴史学のもっと根本的な部分が関係していることがわかる。そこで著者はこう語っているのである。ちょっと長いが引用する。

「歴史という学問は、分析をする主体である自分という人間自体が、その対象となる国家や社会のなかで呼吸をしつつ生きていかなければならない、そのような面倒な環境ですすめられます。となりますと、歴史的なものの見方というのは、いきおい、国家や社会のなかに生きる自分という人間が、たとえば、なぜ三一〇万の人が犠牲になる戦争を日本は行ってしまったのか、なぜ第一次世界大戦の悲惨さに学ぶことなく戦争は繰り返されたのだろうか、という「問い」に深く心を衝き動かされたときに初めて生ずるものなのだと思います。つまり、悩める人間が苦しんで発する「問い」の切実さによって導かれるものなのだと私には思えるのです」(p.47)

だから、本書の中で著者はしつこいほどに、歴史上の指導者の立場に生徒たちを置き、国際環境やそれまでの歴史の流れを教えた上で「君たちならどうするか」「なぜこういうことが起きたと思うか」を問いかける。重要なのはその「問う行為」そのものなのだ。そして、その「問いの切実さ」を実感してはじめて、著者の語るいろんな仮説が活きてくる。

こういうスタンスで歴史を考えるようになると、保守とかリベラルとかいう政治的スタンスでもって歴史学に臨むことが、いかにナンセンスかが実感できる。固定的な「史観」に歴史上の多様な出来事をはめ込むことは、「問い」を発する姿勢そのものが失われてしまうのだ。

生徒からの質疑応答のなかでダイナミックに描き出されていく歴史観は、そういった既成の枠組みからははるかに自由で、しかもエキサイティング。日清戦争日露戦争を「日本の独立」というベクトルと「西洋列強の代理戦争」というベクトルの両方で捉え、日本の被害が少なかったはずの第一次世界大戦の後に大きな社会改造運動が起きた理由を問うところから、パリ講和会議での日本の「危機感」が満州事変日中戦争につながっていくダイナミズムを描く。

そういう自在な視点があるからこそ、日中戦争下の胡適の「日本切腹・中国介錯論」の凄みや、軍人でありながら「日本は戦争する資格がない」と喝破した水野廣徳の炯眼が見えてくるのだ。

あの戦争を断罪するのも礼賛するのも、実は同じ穴のムジナ。歴史とはそんなに単純なものじゃない。こうした認識から始めて、「問い」というスコップを手に、どこまで歴史の深みに手を突っ込めるかが勝負なのだ。本書は歴史学の最前線の成果を惜しげもなく披露しつつ、まさに「問うこと」のダイナミズムの裡に、日本金現代史の本質を照らす試みだ。

保守とかリベラルとかの、枠にはまった歴史観に安心したい人にはオススメしない。枠の外側に手を伸ばし、枠自体をぐらぐら揺るがしたい人にこそ薦めたい一冊だ。