自治体職員の読書ノート

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【1488冊目】今野真二『百年前の日本語』

百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書)

百年前の日本語――書きことばが揺れた時代 (岩波新書)

サブタイトルの「書きことばが揺れた時代」というのは、実はややミスリーディング。なぜなら、書きことばは「ほとんど常に」揺れていたから。

なかで本書が焦点を当てるのが、明治時代。当時の小説や新聞、辞書などを現代と比較することで、明治の言葉がいかに「揺れて」いたか、それがどのようにして「揺れないように」なってきたかを検証している。

たとえば著者は、漱石の『それから』の手書き原稿を取り上げる。これを見ると、同じ漢字でも新字体と旧字体が出てきたり、楷書体と行書体、草書体が混ざっている。

ちなみにこの「楷書体」「行書体」「草書体」について、私は「単なる書き方の丁寧さの違い」だと思っていたのだが、著者によると、中国ではそもそもまったく別のルーツから生まれた書体であるという。楷書体は漢代の「隷書体」から生まれ、行書体は楷書体から生まれたが、草書体は秦代の「篆書体」から派生したらしいのだ。う〜ん、知らなかった。

それはともかく、当時は書体や字体(書体と字体の違いについてもいろいろウンチクはあるのだが、面倒なので割愛)をひとつの文章の中でもいろいろ取り混ぜて書くということが、漱石に限らず行われていた。当時の新聞も書物も同じだった。

漢字以外にも、振り仮名や送り仮名、さらには外来語の表記まで、その書き方はまさに多種多様。例えば英語のhandkerchiefは「手拭(はんけち)」「手巾(ハンケチーフー、ハンケチ、はんけち)」「紛蛻(蛻の虫は巾、ハンカチイフ)」「汗巾児(ハンケチ)」「半手巾(はんかちーふ)」「半巾(はんけち)」等々と表記された。

漢字の当て字もバラバラなら、振り仮名もバリエーションに富んでいる。こうした明治の言語状況について、著者はこう書いている。「明治期とは、「和語、漢語、雅語、俗語」が書きことば内に一挙に持ち込まれ、渾然一体となった日本語の語彙体系が形成された「和漢雅俗の世紀」であった」(p.82)

もっとも、明治時代だけが特殊というワケではない。一般に言葉というもの、常にある程度の「揺れ」を内包しているものなのだが、特に日本語は、外来の表意文字である漢字と、それをもとに日本で生まれた表音文字である「仮名」の二重性が宿命的に存在していた。そのため「日本語を漢字によって書く/書きたい」という意識が、「揺れ」を生む大きな要因になったのだという。

中でも象徴的なのが「異体仮名」だ。これは同じ読みの仮名に複数の文字が充てられているというもので、たとえば「し」には「志」を崩した形状の別字が、「ワ」と発音する「は」には、カタカナの「ハ」に似た別字があった。

しかもこの異体仮名、どちらを使うかは前後の文脈というより、文字が置かれる場所によって変わったという。例えば「し」は続けて書きやすいため行の途中に、「志」に似た字体のほうは、安定感があるため行頭や行末に置かれた。

この異体仮名は、江戸時代以前から明治時代まで連綿と続いていた。転機となったのは1900年。文部省が小学校令施行規則の「第一号表」で一音・一仮名(実際には平仮名と片仮名があるから二仮名)を標準のものとして定めたのだ。この施行規則自体はあくまで小学校における教授用の準則にすぎなかったのだが、その影響は大きかった。「第一号表」に載っていない仮名は「変体仮名」と呼ばれ、徐々に姿を消していった。

それ以外にも、活字の普及や「当用漢字表」の導入などが行われ、明治以降の日本は一貫して、言葉の「揺れ」を回避し、収斂しようとしてきた。活字の導入や新聞の普及の影響も大きかっただろう。いずれにせよ、それまでずっと「揺れ続けてきた」日本語は、ここ100年で一挙に多様性を失い、「標準の」書き方に従うようになってきたのだ。

問題は、そのことをどう見るか。著者が言うように「「同語異表記」「異語同表記」が減ることによって、「誤解」の可能性は少なくなる。書き方の選択肢そのものが減ることによって、共有されるべき情報の量を抑えることができる」(p.188)という「功」はあったのだろう。要するに、言語コミュニケーションの「効率性」は、ことばの揺れを抑えることによって高まるのである。

しかし一方で、多様性を失うことで「言葉が痩せる」という側面も否定できないと、私なんぞは思うのだ。特に影響が大きいと思われるのは、今も私自身が使っているパソコンの普及、もっと言えばATOKや日本語IMEのような日本語入力システムの普及である。

当用漢字表常用漢字表のような「政策的」なシバリと違って、こうしたシステムはほとんど物理的に漢字の多様性を縛ってしまう。異体仮名や中国古典に出てくる漢字を使いたくても、入っていなければ使いようがない(もちろん作字もできるが、かなり面倒くさい)。ちょっとマイナーな文字になると、すぐ「環境依存文字」になってしまう。やれやれ、である。

著者自身は、本書でそこまでは触れていない。というか、そもそも著者自身は言葉の標準化の功罪については中立的なスタンスであり、どちらが良いとも悪いとも述べていないので、念のため。いずれにせよ本書から分かるのは、現代の日本語だけが日本語じゃないということ。それは文字通り氷山の一角であり、海面下には、多様で奇妙でフレンドリーな「もうひとつの日本語」の巨塊が沈んでいるのである。