自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1482冊目】田口ランディ『サンカーラ』

サンカーラ―この世の断片をたぐり寄せて

サンカーラ―この世の断片をたぐり寄せて

なんとも痛切で、心に響く一冊。田口ランディの作品は、魂の一番奥深くをダイレクトに揺さぶってくるような、一種独特のチカラがあるが、本書は特にそうだった。

2011年3月11日。「あの震災」が起きたのとほぼ同時期に、著者は自身の義母を亡くした。震災や原発事故という地球規模の現実と、義母の死という間近の現実に引き裂かれる「私」。メルトダウンが起こっているのに、私がやるべきことは香典返しの準備なのである」(p.20)

著者の置かれた状況ほど極端ではないが、思い当たるフシはある。仕事とか家庭の身近な現実と、テレビに映る津波で町ごと攫われた東北の光景や、水素爆発を起こした福島第一原発という現実。思えば私もまた、二つの「現実」に引き裂かれていたのだ。しかも東北で起きた巨大な現実は、スーパーの買い占めとか余震とかガソリンスタンドに並ぶ車の列とか、とりわけ「放射能」によって、有無を言わさず私たちの生活に食い込んできた。

本書で著者がやろうとしているのは、おそらくは311という「現実」と、著者自身の個人的な「現実」を丁寧につなぎ合わせ、ひとつの地続きのものとして捉えるという「作業」であるように思う。そして、それはおそらく、あの日以来、私たちの誰もが本来やらなければならなかった「仕事」でもあった。

しかし私自身について考えてみると、そのことを著者ほどきっちりとやらないで来てしまったような気がする。おそらく、多くの人はそうだったのではないだろうか。震災や原発事故を「なかったこと」にして個人的現実に引き戻ったり、あるいは「あちらの現実」だけが唯一の現実になってしまい、身近なリアルをどこかに置き去りにしてしまったり。

もちろん、「元には戻れない」のは百も承知。震災を「なかったこと」にすることは不可能だ。しかも震災や原発事故の経験は、いやおうなく「私」自身を大きく揺さぶり、消えない痕跡をそこに残した。とりわけ著者の場合、あの大津波が思考や感情の「表土」を洗い流し、今まで見えなかったことにしていた、田口ランディ自身の深層をあらわにしてしまったのだ。

具体的には、津波原発事故は、彼女自身の記憶を掘り返し、引きずり出し、著者自身の姿を情け容赦なく突き付けた。アルコール依存症だった父の暴力と津波の暴力性が重なった。自分自身のなかにある「恐ろしく荒廃した内的世界」(p.259)が見えてきた。兄の死をきっかけに大きく変わったと思っていた自分自身が、実はさして変わっていないことが見えてしまった。

実は「311」と個人の人生という「2つの現実」は、思いもかけないところでつながっていたのだ。本書の途中に綴られているイタリアでの「沈黙」の発見、飯館村の小林麻里さんや水俣の緒方正人さんとの出会いや水俣との関わりも、ひょっとしたら大きな連環の一部なのかもしれない。ものごとはすべてつながっている。「縁起」である。

「私たちは本質的な問いが苦手です……問いは本質に近づくほど、この世界の縁起へと近づいていくからです」(p.239)

そして、震災や津波原発事故こそが、ひょっとしたら私たち一人ひとりに投げかけられた、きわめてシンプルで本質的な問いなのだ。それを見つめることは、震災を鏡に自分自身の人生を見つめることでもある。そのことを、本書は、ぞっとするほどの迫真性をもって書いている。田口ランディの、おどろくほど真摯で率直な、忘れ難い一冊だ。