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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1460冊目】吉村昭『漂流』

漂流 (新潮文庫)

漂流 (新潮文庫)

舞台は江戸時代。土佐の船乗り4人がシケにあって漂流し、絶海の無人島に辿りつく。九死に一生を得た彼らを待ち受けていたのは、草木もほとんど生えない岩だらけの火山島だった……。

「漂流もの」の小説はかのロビンソン・クルーソーをはじめいくつもあるが、私の記憶のかぎり、本書を上回る作品は存在しない。

絶望に次ぐ絶望、試練に次ぐ試練。次々に倒れていく仲間たち。自然の過酷さがむき出しで人間に襲いかかるこの島では、人間もまた、生きることに「むき出し」にならざるをえない。いっさいの虚飾や虚栄は、すべてそぎ落とされる。「人間」というものの正味の、生身の姿がそこにある。

渡り鳥を捕まえて食料にし、雨を貯めて飲み水とする。鳥が去ってしまうことを察知して干し肉を用意し、肉ばかりでは死んでしまうと分かると海辺を歩いて貝や海藻を探す。ここにあるのは、まさに「サバイバル」そのものだ。

面白いのは、己の力しか信じられないと思われるこうした環境で、むしろ主人公の長吉が、常に念仏を唱え、神仏の加護を信じ、つまりは自力より「他力」に傾斜していったということだ。自然の猛威を前にして、人間ひとりの力など何にもならない。長吉は、そのことを骨身にしみて悟っていたように思われる。

ちなみに、本書における長吉の存在感は圧倒的だ。漂着したのはまだ20代。遊郭で女遊びをたのしむような、どこにでもいる若者にすぎない。それが無人島に辿り着いた後は、本来のリーダー格だった源右衛門が弱って悲観的になったのに対し、気持ちを奮い立たせてリーダー役を買って出る。

さらに仲間3人が死に、孤独の中でただただ生き延びる日々の中で、おそらく何かが長吉の中でどっしりと腰をおろしたのだろう。それを「悟り」というかどうかはともかく、次なる難破者である大阪の船乗りたちが現われた時、すでに長吉の達している境地ははるかに高い。人は極限状態に陥るとここまでなれるのか、と感嘆させられるほどである。

一方で極限状態に置かれたことで泣き、騒ぎ、悲観的なことを口走るばかりの人間もいる(たぶん私はそっちになりそうだ)。陳腐な言い方であろうが、こういう状況でこそ個々の人間の「地金」が出てくるものなのである。本書は自然という究極的な極限状況をぶつけることで、彼らの人間性を骨の髄まで明らかにしてみせた。本書の凄みの最たる部分は、おそらくそこにある。

吉村昭の最高傑作と評されるのもうなずける。小説の「力」というものが腹の底まで響き渡る一冊だ。

完訳ロビンソン・クルーソー (中公文庫)