自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1459冊目】阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)

鼠害に悩まされていたハーメルンの町に、まだらの服を着た奇妙な男が現われて、いくらかの金を払えば鼠を退治すると言う。市民たちが報酬を約束すると、男は笛を吹き鳴らした。するとどうだろう。家々から鼠が走り出て男の周りに群がり、男の後について町から出て行った。男が河に入ると、鼠もその後について行き、溺れてしまった。

男は市民たちに報酬を求めたが、急に金が惜しくなった市民は支払いを拒絶した。怒って町を去った男は、ヨハネとパウロの日に再び姿をあらわし、またもや笛を吹き鳴らした。すると町の子どもたちが残らず家々を走り出て、男の後について町を去り、山に着くと男もろとも消え失せてしまった……

ご存知「ハーメルンの笛吹き男」のあらすじである。著者はドイツのゲッチンゲンで出会った古文書をきっかけにこの伝説に魅入られ、のめり込むようにその正体を探求した。本書はその成果であって、同時に、著者の西洋中世史研究のスタートラインとなった一冊だ。

まず驚いたのは、130人もの子どもたちがいちどきに失踪するという事件が、どうやら実際に起きたらしいということだ。1284年6月26日という日にちまで特定されている。著者はその記録を辿りつつ、戦争や植民活動など、これまで立てられたさまざまな仮説を総点検していく。

ついでに書いておくと、「鼠捕り男」の話は元々別にあって、現在の「ハーメルンの笛吹き男」は、両者が16世紀頃に「ドッキング」したものであるという。この「鼠問題」もまた当時のヨーロッパを悩ました大難題であり(かのペストをまき散らしたのも鼠であった)、そのぶんさまざまな逸話や伝説が生まれた。

さて、子どもたちの集団失踪や鼠捕り男の伝説をめぐって様々な仮説を当たっていく中で、著者にとってひとつのターニングポイントとなったのが、庶民にとっての「伝説」としてこの物語を捉えるという視点だった。

「伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発する」(p.117)と著者はいう。「そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえられ、位置づけられていく」(同頁)

では、当時の庶民の生活はいかなるものであったか。一言でいえば、それは悲惨そのものであった。なにしろ、現代のような社会福祉など期待するべくもない。とりわけ女性や子どもは、現代の先進国では想像もつかないほどの劣悪な状態に置かれていた。本書はそのすさまじい現実を詳細にスケッチしてみせている。

そんな庶民の間から生まれた伝承として「ハーメルンの笛吹き男」を読み解くということは、同時に、伝説をひとつの「真実」として読みなおすことによって、当時の無名の庶民の生活をひもとく試みでもあった。本書が画期的だったのは、単に「伝説の読み解き本」にとどまらず、むしろ伝説をツールにするという、中世ヨーロッパの庶民の生活と精神の奥底にまで分け入るための「方法」を提示したところにあった。


「社会の下層で呻吟する庶民の苦しみは、そのものとして直接に言葉で表現するにはあまりに生々しく、表現されたとたんに庶民には嘘としてみえてくる。庶民はまさに苦しみの底にあったが故に、その苦難を無意識のうちに濾過させ、つきはなした形でひとつの伝説のなかに凝縮させる。こうして古来人々の恐怖の的であった〈笛吹き男〉や〈鼠取り男〉でさえ、庶民にとっては自分たちの怒り、悲しみ、絶望をともに分ちあう存在となる。〈鼠取り男〉が庶民と同じ裏切られた存在として書かれていることは、この時の庶民の絶望の深さを示していると私には思える」(p.258〜259)

本書の核心は、このくだりに尽きていると思う。何より公式記録にはほとんど載ってこない中世歴史の「暗部」であった庶民の歴史に光を当てる手法を「伝説」に見い出したというところが素晴らしい。

一方で著者は、こうした伝説を「学問」として取り扱うにあたっては、きわめて慎重である。「歴史的分析を史実の探索という方法で精緻に行なえば行なうほど、伝説はその固有の生命を失う結果になる」(p.298)という著者の言葉は切実だ。だが、こういう切実な言葉を発することができるからこそ、阿部謹也氏の本は読むに値するのだ。

庶民と知識人、伝説と研究。相容れない両者のジレンマについて、学者でありながらこれほど自覚的で、これほど慎重な人物も珍しいのではなかろうか。本書の文庫版解説を学者ではなく詩人の石牟礼道子が書いているのも、まさにぴったりの人選というべきだろう。ちなみにこの解説は名文。ぜひ本文とあわせて読まれたい。