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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1437冊目】斎藤卓志『刺青墨譜』

刺青墨譜―なぜ刺青と生きるか

刺青墨譜―なぜ刺青と生きるか

人は、なぜ刺青を彫るのか。

なぜ刺青が存在するのか。人間と刺青はどんな関係にあるのか。そんな「問い」を抱えた著者は、刺青を入れた人にその想いを聞き、彫り師たちの世界を尋ね、歴史の中に刺青の系譜を探り、要するにありとあらゆる方向から「刺青」の正体に迫る。

刺青を入れる人は、最近増え続けているという。入れるには痛みを伴い、それなりのお金がかかり、しかも一生消えない。銭湯も温泉も入場禁止、大阪市なら公務員にもなれない。そんな刺青を、なぜ人は彫りたがるのか。考えてみればずいぶん不思議な話である。

そんなのは自分と関係ない話、と割り切ることはカンタンだ。私自身、自分の人生と刺青を交錯させて考えたことはなかった。だが、本書の著者はこの疑問に正面からぶつかり、体当たりである回答を引き出して見せた。

著者は安城市学芸員や市史編纂室長を務めた方。民俗学畑の人物らしく、本書で取られている手法も「聞き書き」がメインとなっている。実際に刺青を入れた人の肉声からは、今まで見えなかった、あるいは私が目をそらしてきたモノがたくさん見えてきた。

入れることで自分が変わった、という人が多い。人に見せるより、自分のために彫る。痛みそのものが目的ではないが、痛みを経ることに意味を持たせている人もいる。そもそも刺青は、痛みに耐えたことの証明でもある。

消えないモノを身体に入れることも、だからこそ意味がある、と考える。やり直しができないからこそ、あえて入れる。そこにひとつの跳躍があり、決意がある。緩慢な日常を断ち切る決断がある。本書で紹介されている、刺青を入れた人たちの言葉は、ピンと背筋が伸びていてカッコいい。

「彫ることは一生の後悔、彫らなくても一生の後悔」(p.63)とある女性は言っている。そこには抜き差しならぬひとつの切実がある。このような世の中を生きていくために、人はそんな切実をこそ必要とするのかもしれない。

そもそも刺青は、古代人にとっては当たり前のものだったという。それは呪術であり、護符であり、成人への通過儀礼であり、死者の国へのパスポートであり、死と隣り合わせの仕事に就く者にとっては、死んだ時に見つけてもらうための備えでもあった。魏志倭人伝では、二千字のうち百字ほどが倭国の刺青について書かれているという。

その後も刺青の伝統はずっと引き継がれてきた。江戸時代には禁止令も出たが、あまり効果はなかったようだ。特に沖縄、奄美やアイヌの人々にとって、刺青は重要な意味をもっていたという。

大きな断絶が起きたのは、御多分にもれず明治維新だった。「刺青は江戸においても、明治新政府においても同様に禁じられたが、その背景は全く異なる。明治には欧米というモデル、目標があり、外国からどう見られるかという意識が強くはたらいた。新しい目で見直した。そこでは刺青は認めることのできない「悪」と映った」(p.216) 

某市長のように、刺青をタブー視するような風潮の根っこは、どうやらこのあたりにあるようだ。刺青を目の敵にするのも結構だが、その前に刺青とは何なのか、その意味合いをもう少し考えたほうがよさそうである。

現代における刺青は、呪符でもなければ痛みに耐えた「男の勲章」でもない。それは「生きる証」であると著者は言う。「刺青を通して自分の存在を知ることができるのだという。自分が自分であることを自身で確かめる。自分が自分の刺青を見たとき、痛みは忘れているがその時の思いは忘れない。過程が記憶され次に向かう原動力になり生きるための土台になるという。そうだとすれば、記憶にすぎぬといって軽んじるわけにはいかない」(p.272〜273)

私はどうやら、刺青というものを少し甘く見ていたようだ。どうやらそれは、その人にとっての存在学そのものでさえあるのかもしれないのである。読んでいるうちに、読む前には夢にも思わなかった「刺青を入れる自分」が想像できてしまう、本書はそんな一冊であった。