自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1419冊目】南木佳士『熊出没注意 南木佳士自薦短編小説集』

熊出没注意―南木佳士自選短篇小説集

熊出没注意―南木佳士自選短篇小説集

いい短編集だった。どの小説も、読むごとに、ふっと肩の力が抜ける。

この人の小説は『阿弥陀堂だより』しか読んでいなかったが、基本的なトーンはどれも似通っている。山村での生活。日常に溶け込んだ「生と死」。老人(特に老婆)の存在感。そして著者自身の投影。

いわゆる私小説ということなるのだろう。ただし医者でもある著者の、「ふつうの小説家」とはちょっと違った「眼」がどの短編にも利いていて、そこがちょっとおもしろい。エリート特有の鬱屈、精神を病んだ経験からくるある種の負い目(自分に対しても、周りに対しても)が、作品のスパイスになっている。

どの小説でも「死」が大きく扱われている。とはいえ、カンボジアでの難民救援医療団の経験を書いた「重い陽光」は例外として、医療現場で見た人間の生と死は、実はほとんど書かれていない。医者の私小説でほとんど医療現場が登場しないのは、考えてみればちょっと不思議な感じがする。

むしろ出てくるのは著者自身の家族、特に父親の死にまつわるエピソードである。著者は父に関してあまり良い思い出がなかったらしい。それでも記憶を丹念に探りながら、肉親の死に臨む。その、死に臨む心境が実にこまやかに、かつリアルに書かれている。私はまだ両親が健在だが、その死を迎える時はこんな気分になるものだろうか。そんなことを考えてしまった。考えながら読んでいた。

医者でありながら、あるいは医者であるがゆえに、死に対するいろんな思いや鬱屈を抱えている著者に対して、山村の老人、とりわけ老婆たちの突き抜けぶりがなかなか楽しい。一見平穏で、山奥で素朴な暮らしを営み、年齢を重ねてきた人たちの「凄み」のようなものが、ちらちらと見え隠れする。

特に印象に残ったのは、「神かくし」に登場する田村さん。一度死線をくぐりぬけて今はぴんぴんしているおばあさんなのだが、こんなセリフ、そうそう出てくるもんじゃない。

「決断ていうのはさあ、あたりをきょろきょろ見回して、ちまちまと状況判断することじゃなくて、そういう流れの全部を、そういう流れのなかに身を置いて引き受けるってことだとわたしは思うよ」(p.213)

あるいは「稲作問答」に出てくる老農夫の西野さんも、なかなかに味わいがあって良い。こういうのを「人生の知恵」っていうんでしょうねえ。

「おめえもなあ、いい歳になっただから、たら、れば、の話をするじゃあねえよ。もしあんときそうだったらってのはなあ、あんときそうじゃなかったいまの自分が思ってるだけのもんだだよ。あんときそうしなきゃあならなかったいまの自分がな。おれだってなあ、こんな山ばっかり見てるとこから逃げ出したかったさ。頭がだめだったから、からだを使うしかなかっただよ……おれが、もしもわけえころ頭がよかったら、なんて言ってみたってなんの意味もねえじゃねえか。きょうのおまんま食えねえじゃねえか。どうだい。そう思わねえかい」(p.268)

「まあ、こういうもん(田畑)は先祖から受け継いだもんだから、ありがてえにはありがてえと感謝はしてるだよ、おれだって。リレー選手のバトンみてえなもんだな、こういうもんは。生きてる間はおれのもんだけど、渡しちまえば息子のもんだわな。おれだっておやじから受け取ったわけだからな。バトンを持ったら、走るっきゃねえじゃねえか。なんだかんだ言ったって、それだけのもんだぞ、一生なんて」(p.270)

いいねえ。言葉に血が通っている。こういうのを、ホントの「知」というんでしょうねえ。こんなセリフを山奥の田んぼを眺めながらぽつぽつと話されたら、そりゃたまらんでしょうねえ。