読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1408冊目】白洲正子『かくれ里』

歴史・文化・民俗

かくれ里

かくれ里

こういう本を読むと、観光客でごった返す名所旧跡なんぞに行くのがバカらしくなる。

著者が訪れるのは、山奥に人知れずたたずむ寺や、街道筋からはずれたところでひっそりと暮らしている集落ばかり。しかしそこに眠る仏像や古面、人々の暮らしぶり、そしてその周囲の自然の美しさは、思わず息を呑むほどだ。しかもその美しさは、著者がその地の歴史を重ね合わせ、失われた人々の想いを汲み取り、そこで感じた美や悲哀やロマンを目の前の風景に投げ返したところに立ちあがっている。それがなんとも絶妙で、素晴らしい。

しかも本書で著者が訪れているのは、タイトル通り「かくれ里」。古代の天皇から南朝の落人、さらには修験者や密教の修行僧たちが人知れず落ちのび、あるいは籠った特別な場所なのである。だからこそ、そこに秘められた歴史の深みと文化の味わいは格別だ。

「神を創造することが、日本のかくれ里のパターンであることに私は興味を持つ」(p.200)と著者は言う。かくれ里に落ちのびた貴人を、村人たちは単にあわれんだのではなかった。そこから彼らは物語を産み出し、さらに伝説が生まれ、ときにはある種の信仰にまでなっていった。

その物語は、日本の正史にはほとんど語られることのない「裏側の歴史」でもある。「表側の歴史」を彩った奈良や京都、鎌倉などが観光地化し、本来の要素を失ってしまっているなかで、マイナーな「かくれ里」には、裏側の歴史が純粋培養のようなカタチで生き残ったというのが、なんともおもしろい。

それにしても、こういう「紀行」ができるというのも、ものすごいことである。単なる知識の多さというだけでは済まされない何かが、著者にはあるような気がする。なんというか、この人の文章を読んでいると、知識が単に知識としてあるのではなく、白洲正子という人間の感性の一部として、ふんわりやわらかく溶け込んでいるのを感じるのだ。

だからある風景を見ると、ほとんど脊髄反射のレベルで万葉歌や和歌がするすると出てくる。そこにいっさいのよどみがなく、てらいもない。目の前の風景に、そうしたものがふわりと重なってくる。それでいて、たったひとつのエピソードや短歌を添えただけで、目の前の景色がそれまでとまったく違う光景として見えてくる。白洲正子の「眼」ならではの凄みであろう。

白洲正子は歴史や民俗の「専門家」ではない。しかし、こういう書きっぷりをみていると、何かの専門であることなど、てんでつまらなく思えてくるから不思議である。実は本書を読む前は、白洲正子なんてちょいと気取ったそこらのオバサン趣味なんじゃないか、なんて不遜にも思っていたのだが、いやはや、本書には参った。降参だ。だって、こんな「眼力」の持ち主、今の世に果して何人残っていることか。