自治体職員の読書ノート

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【1377冊目】サイモン・シン『フェルマーの最終定理』

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

分からないのに面白いって、どういうことなのか。そう首をひねってしまうほど面白かった一冊。

テーマは言うまでもなく、かの有名な「フェルマーの最終定理」。17世紀フランスの大数学者ピエール・ド・フェルマーが定理の概略に続けて「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書いたがために、その後300年にわたり世界中の数学者を悩ませてきた大問題だ。

本書はこの問題を、古代ギリシアピュタゴラスから書き起こし、1993年のアンドリュー・ワイルズによる劇的な「証明」に至るまでの歴史を綴っている……つまり、古代から現代に至る全数学史を「総ざらい」している一冊なのだ。

なぜそういうことになるかといえば、結果的にみれば、フェルマーの最終定理を解くことは、それまでに編みだされたありとあらゆる数学上の定理や方法を総動員することであったからだ。ニュートン「私が他の人よりも多少とも遠くを見ることができるのは、それは巨人の肩の上に乗っているからです」と述べた(p.487)というが、そのデンで言えば、本書はワイルズがちょこんとその肩に乗っている数学という巨人の姿を、つま先から頭のてっぺんまでまるごと描写した一冊であるといえる。

中でも決定的な役割を果たしたのが日本人である、というのがなんとも嬉しいのだが、ワイルズの「解法」の重要なキーを握っていたのは、谷山豊・志村五郎という二人の日本人が打ちたてた「谷山=志村予想」であった。

「すべての楕円方程式はモジュラーである」という谷山=志村予想がフェルマーの最終定理を証明するための鍵となることに気づいたのは、ゲルハルト・フライという数学者だった。フライは「フェルマーの最終定理が成り立たなければ、谷山=志村予想は成り立たない」すなわち「谷山=志村予想が証明されれば、フェルマーの最終定理は成り立つ」ことをあきらかにしてみせた。これによってフェルマーの最終定理をめぐる「レースの種類」が変わった。そしてワイルズもまた、フェルマーの最終定理を証明するために谷山=志村予想に取り組み、みごとにこれを証明してみせた。

こう書いていくと、なんだか谷山=志村予想はフェルマーの最終定理のための「添え物」のような感じがするが(たいていの本では実際にそういう位置づけがされているが)、実はそれほどモノゴトは単純ではないらしいのだ。なんと、フェルマーの最終定理よりネーム・バリューは劣るが、谷山=志村予想のほうが、証明された時の数学界への影響は大きいものだったらしい。

「谷山=志村予想が証明されたことは、フェルマーの最終定理が証明されたことよりずっと大きな快挙だとみる専門家は多い。というのも、谷山=志村予想が証明されることは、ほかの多くの定理によってとてつもなく大きな意義があるからだ。ところがジャーナリストたちはフェルマーにばかり焦点を合わせ、谷山=志村予想には軽く触れるだけ―あるいはまったく触れない―ことになりがちだった」(p.383〜384)

著者もまた一人のジャーナリストであるが(本書の元ネタはBBCのテレビ番組)、こういうところにきっちり着目し、自身の価値観に基づいて取り上げているところはさすがの眼力である。むしろ私としては、日本のマスコミがアンドリュー・ワイルズの快挙を紹介した時に、この二人の日本人についてどの程度触れていたか、ということのほうが気になる。ちなみに谷山・志村以外にも「岩澤理論」を打ち立てた岩澤健吉、本書には出てこないが肥田晴三という日本人もまた、フェルマーの最終定理の証明に寄与しているらしい。

それにしても、数学といういかにも抽象的で無機質に思える世界の、なんと人間的でなまなましいことか。数学者たちの(世間一般の基準からすればかなり浮世離れしてはいるが)なんと魅力的で、その人生がいかにドラマに満ちていることか。結論だけ、公式だけの数学ばかりでは、つまらないのも当然だ。その裏側に隠されているドラマと一緒に数学の授業をやってくれれば、どんなに楽しい時間になっていたことか。そんなことを思わされた、実に楽しく刺激的な一冊であった。