読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1368冊目】マルクス・アウレリウス『自省録』

人類・人間・人生

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

ローマ五賢帝の最後のひとりで、プラトンの理想とした「哲人王」を体現したただひとりの皇帝といわれるマルクス・アウレリウスが、本書の「著者」である。

正直、そのあまりの「正しさ」に、読んでいてかなり肩が凝った。なにしろ皇帝陛下曰く、死後の名声や人の評価、目先の欲望にとらわれるな。この宇宙に神々がつくりたもうた秩序にのっとり、真理と理性に寄って立つべし。人をさげすむことなく、ただ自らを律せよ、といった具合なのだ。

はい。はい。おっしゃることは、たしかにそのとおり。しかし皇帝さま、それを実行することが、われわれ俗物には難しいのですよ。そんなふうに毒づきたくなるほど、哲人皇帝マルクス・アウレリウスの言葉は、世界の摂理に彩られて燦然と輝いている。

中で印象に残ったのは、人生には過去も未来もなく、ただ過ぎゆく「現在」のみがあるということ。「もっとも長命の者も、もっとも早死する者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである」(2-14)

一方で、万物流転のはかなさについても語られる。「……すべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、その形相因も千万変化し、常なるものはほとんどない。我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口をあけており、その中にすべてのものが消え去っていく」(5-23)

なんとまあ、まるで方丈記の世界ではないか。この考え方をとことんまで推し進め、拠って立つものなど存在しない、というところまで行きついてしまえば、それはまさに仏教的な無常観になってしまうのだが、マルクス・アウレリウスはそこまでは行かない。むしろ、ここで普遍的な「真理」と「理性」を確固たるよりどころとして持ち出し、歯止めにしてしまうのだ。それは言い換えれば「内なるダイモーンの声」である。内なる声(理性)の導きに従い、宇宙と自然の秩序に沿うべし。主観を捨て、自らの義務を果たせ。そうマルクス・アウレリウスは、読み手に語りかけている。

全編この調子であるから、肩が凝るのも分かってもらえると思うんだが、私の場合、読んでいるうちにあることが気になりだし、そうなると俄然おもしろくなってきたのだ。それは《この「読み手」って、いったい誰のコト?》というクエスチョンだ。読み始めてしばらく「君は……すべきだ」のような説教口調にヘキエキしたのは、まさに本書を読んでいる私自身を「君」という二人称の相手だと思っていたからだった。

だけど、それって何か違うんじゃなかろうか。なぜなら、本書のタイトルは「自省録」、つまりこの本は「自ら省みる記録」であるはずなのだ。とすれば、この「君」と呼びかけられている相手とは、著者のマルクス・アウレリウス自身であるに違いない。

気になって先に「訳者解説」を読むと、やっぱりそうだった。そこにはこう書いてあったのだ。「書中幾回となく「君」とあるのは自己に対する呼びかけであって、いわば自己との対話ともいうべきものであろう……そこには人のために書く意識が全然なかった。したがって、微塵の衒いもなく、ポーズもない」(p.320)

まさに本書は、皇帝が自らを省み、自らを戒めるための、自分に宛てたメッセージ集であったのだ。そう考えて読んでいくと、いろいろ裏読みができてきて楽しくなってくる。なぜって、自分で自分に「何々せよ」と言う時って、自分ではそれが「できていない時」に違いないからだ。「動ずるな」とある時はマルクス・アウレリウスが動じた時なのだ。「怒るな」とある時は怒った時、「欲望に流されるな」とある時は流された時、人をさげすむな、と書いた時はさげすんだ時。中でも究極は次の断章であろう。

「明けがたに起きにくいときには、つぎの思いを念頭に用意しておくがよい。「人間のつとめを果すために私は起きるのだ。」自分がそのために生まれ、そのためにこの世にきた役目をしに行くのを、まだぶつぶついっているのか。それとも自分という人間は夜具の中にもぐりこんで身を温めているために創られたのか。「だってこのほうが心地よいもの。」では君は心地よい思いをするために生まれたのか、いったい全体君は物事を受け身に経験するために生まれたのか、それとも行動するために生まれたのか。小さな草木や小鳥や蟻や蜘蛛や蜜蜂までがおのがつとめにいそしみ、それぞれ自己の分を果して宇宙の秩序を形作っているのを見ないのか」(5-1)

この断章はまだまだ続くのだが、この前半部分だけでも、布団にくるまって悶々としている人間マルクス・アウレリウスの姿が目に浮かんでくるではないか。哲人皇帝でさえ温かい寝床から出たくなくって「だってこのほうが心地よいもの」なんてお茶目なセリフを(もちろん頭の中で、だろうが)つぶやくことがあったのだ。

そんなふうに考えると、急に著者に親近感が湧いてきたのだが、読んでいくうちに、いやいや、やはりこの人物はものすごい、と思いなおした。皇帝という究極的な地位にありながら、ここまでストイックに自分自身の心情や行動を捉え直し、「正しい行動」「正しい人間の在り方」を愚直なほどマジメに考え抜くなんて、なかなかできることではない。やはりこの人、非凡である。

しかも本書には、皇帝としての政治的な判断や軍事的な考え方などは、ほとんど出てこないのだ。マルクス・アウレリウスの関心の先はただひとつ、「生きる」ということそのものに向けられている。今読めばものすごく青臭い議論に、大真面目で取り組み、とことんまで考え抜いているのだ。

こんな皇帝、いや「王」でも「大統領」でも「首相」でもよいが、こんな人物が政治のトップとして存在したことなど、今まであっただろうか。プラトンの「哲人王」がこのような人物のことを指しているのだとすれば、彼の思い描いた哲人政治など夢のまた夢、ということになりはしないか。何しろこの二千年間で、王や皇帝は掃いて捨てるほど存在したが、マルクス・アウレリウスは一人しか存在しなかったのだ。

方丈記 (岩波文庫) 国家〈上〉 (岩波文庫)