自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1354冊目】フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

今、タイトルを打ちこもうとして「フョードル・ドストエフスキー」と入力するつもりが、気づいたら「フョードル・カラマーゾフ」と書いていた。

同じ「フョードル」の名にも符合を感じるが、それより何より、この巨大な長編のすべてが「カラマーゾフ」に支配されていること、ひょっとすると文豪ドストエフスキーの名前さえもがカラマーゾフに呑み込まれてしまっていることを、この打ち間違いは意味しているのかもしれない。それほどまでに「カラマーゾフ」の支配力は、すさまじい。

最初に読んだのは20歳頃だったろうか。登場人物の強烈な個性、複雑で入れ子状になった物語、そこかしこで交わされる難解で長大な議論に半ばついていけないまま、それでも無理やり飲み干すように読み終えた覚えがある。有名な「大審問官」も「ゾシマの告白」も、ほとんどピンときていなかった。

そういうやや上滑り気味の入り方をしたので、今回はちょっと入念に準備をした。「松岡正剛の千夜千冊」で予習をし、加賀乙彦亀山郁夫ドストエフスキー論を読みなおした。だが、読み終わってみて感じたのは、そんな予習とは関係なく、本書は途方もなく面白い小説であり、これを苦労して読んだ大学時代の自分がいかにアホで読解力に欠けていたか、ということであった。もちろんそこには、この圧倒的に読みやすい「新訳」のチカラもあずかっているのだろう。

本書自体について、ここで何かを書こうというような大それた気持ちは持っていない。世界中の最高の知性に地鳴りのように影響を与え、神と無神論、父と子、男と女、愛と恋、ヨーロッパとロシア、理性と狂気、嫉妬と欲望といったありとあらゆる要素を濃密に織り込みつつ、すさまじいエネルギーと緻密な構成を両立しつつ驀進する物語、ありとあらゆる補助線が引け、読む人ごとに多種多様なメッセージを読み取ることのできるような多義的で多重的な構造に、ただひたすら圧倒されるばかりの読書であった。

特に第3巻から第4巻に至る展開はまさに一瀉千里。クライム・サスペンス、リーガル・サスペンスとしても、これほどまでに読み手をつかんで離さない引力をもった作品は滅多にない。

そして本書は、「カラマーゾフ」によってすっかり覆われているにもかかわらず、また著者である「ドストエフスキー」そのものでもあったのだ。そのことを見事に明らかにした訳者の「解題」及び「ドストエフスキーの生涯」は、以前別訳で本書を読んだ方にとっても必読である。ドストエフスキーがくぐり抜けたあらゆる体験、その中で深めてきたあらゆる思索が、本書には文字通りちりばめられているのだから。つまり、カラマーゾフを読むということは、ドストエフスキーという作家そのものを読むことにほかならないのだ。

極彩色の絵の具が濃密に塗り込まれ、一見混沌としているようで、その奥には緻密きわまりない伽藍のような構造。もっとも清浄な光と、もっとも深い闇の両極が、まるで背中合わせのように存在する世界観。しかも恐ろしいことに、ドストエフスキー自身が書いているのだが、本書はなんと「第一の小説」にすぎないというのである。

ドストエフスキーはこの後に「第二の小説」を構想しており、この世界文学の最高峰の一冊は、実はその前半部でしかなかったのだ。それが書かれなかったのは、本書の執筆後わずか2カ月後に、著者が急逝したためにすぎない。いったいこの小説の「後編」が書かれたとしたらどんなとんでもないモノが生まれていたか、なんだか惜しかったような、これで良かったような。ちょっと複雑な気分では、ある。