自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1337冊目】小池昌代『文字の導火線』

文字の導火線

文字の導火線

詩人・作家である著者による書評集。この「読書ノート」の参考になるかと思って読んでみたのだが、参考なんておこがましい、とすぐに気付いた。これは、まるっきり、次元が違う。

読者である「わたし」自身が、その本と向き合い、語り合い、あるいは交じり合い、斬り結ぶ。その息遣いや叫び声や流れる血を含めての「書評」なのである。私自身を振り返ってみると、本について書こうと思うと、どうしても「自分」というものを抜きにして、単にその本のことだけを文字にしようとしてしまいがちだし、そのほうがある意味書きやすいのだが、どうやらそれだけでは「ダメ」らしい。著者はこう書いている。

「読書というものは、自分が本を読むことであるが、同時に本に、自分が読まれることである。最近、つくづくそう思う。だから本について語ることは、どうしたって自己を語るに等しいということになる。それはなかなか危険なことだが、その危険を冒していない書評の類は、これは自分のことを省みても、退屈なものになってしまう」(車谷長吉『文士の生魑魅』書評)

小池昌代にして、こうなのだ。思うに、「私」をわきに置いて本について書こうとするのは、実は「逃げ」であって、そもそも読書という行為に入ってさえいないのかもしれない。こうした腰の引けた姿勢でどれほどこの「読書ノート」を書いてきたことか。考えるだけで、冷や汗がでてくる。

もうひとつ、本書を読んで衝撃を受けたのが、本を評するそのコトバの的確さと豊穣さである。一冊の本そのものを、たったひとつの言葉でこれほどまでに包みこんだり貫き通したりすることができるものなのか。これもまた、私が真似しようにも遠く及ばないところ。例えば、次のような具合である。本当はもっといっぱいあるのだが、とりあえずはこのくらいで。

「壮絶にして菩薩のような本である」(佐野洋子『シズコさん』書評)

「怖くて懐かしい「胎内小説」だ」(小野正嗣『森のはずれで』書評)

「この作品を読んでいると「どうぶつ」という言葉を平仮名でおもいだす」(川上弘美『真鶴』書評)

川端康成は生きているときも死んでいた」

「漆黒のダイヤのような一編である」(三島由紀夫『殉教』について)