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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1332冊目】井上ひさし『一週間』

一週間

一週間

井上ひさし最後の長編小説。テーマはなんと、シベリア抑留。

戦後、強制的にソ連に抑留された多くの日本人が、強制労働と飢えのため帰国かなわずシベリアで死んだことはよく知られる。そして、このことが語られる際に必ずといってよいほど言われるのが、ソ連の横暴で過酷な振る舞いに対する非難の言葉であろう。しかし、ここで著者が告発するのは、国際法も人権も無視したソ連の非人道とともに、収容所内に持ち込まれた旧日本軍のヒエラルキーがもたらした悲劇であった。

なにしろ、関東軍の上級将校たちは部下を慮ってソ連側に国際法の順守や待遇向上を求めるどころか(そもそも国際法の何たるかさえ彼らは知らなかった)、兵卒の食事を搾取し、労働に駆り立て、自身はぬくぬくと遊び暮らした。そのため将校たちが肥え太る一方、兵卒はばたばたと倒れていったというのだから許しがたい。もちろんソ連側の過酷な待遇もあったが、シベリアの悲劇の少なくない部分は、まったくもって恥ずべきことに、同じ日本人によってもたらされたのだ。

そんな収容所の実態をリアルに描きつつ、著者はそこにユーモアとペーソスと冒険活劇とロマンスを絶妙のバランスで混ぜ込んで、虚実ないまぜの壮大な物語を編みあげてみせる。元地下活動家の主人公がかつて体験したスリリングなスパイ活動、主人公が聞き出すこととなったユーモア溢れる収容所脱走劇、そしてロシア美人とのささやかなロマンス……。とにかくありとあらゆる小説の要素が、文字通りわずか「一週間」のうちにてんこ盛りに盛り込まれているのだから、これが面白くないワケがない。

中でも著者の手並みが冴えわたるのは、「レーニンの手紙」なるものを物語に織り込んだことだろう。公になればソ連を支える「レーニン神話」が崩壊するとまで言われるこの手紙をめぐる、主人公とソ連側の虚々実々の駆け引きのくだりは、息をするのも忘れるほどの緊迫感だった。レーニンの出自がそこにからんでくるあたりなど、手塚治虫の名作『アドルフに告ぐ』を思わせる。そういえば歴史の虚実を巧みにブレンドして一大絵巻を作り上げる才能において(ユーモアをどんな場合でも忘れないところも)、井上ひさし手塚治虫って、どこか似ている。

そしてまた、思えば本書はソ連を舞台にしつつ、実は日本人、日本語、そして日本という国家を巧みに描き出した物語であった。その意味でもやはり、これは井上ひさしの集大成、最後にして最高の傑作なのだと思う。75歳の死を「早すぎる」とは言わないが、こういう小説を書ける人を失ったことは、やはり惜しまれる。合掌。

アドルフに告ぐ (1) (文春文庫―ビジュアル版)