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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1322冊目】デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』

それでも、読書をやめない理由

それでも、読書をやめない理由

ものすごくストレートなタイトルだが(ちなみに原題は”THE LOST ART OF READING“だが、この内容なら邦題のほうがマッチしている)、たしかに自分自身、どうして読書をやめないでいるのか、考えてみれば不思議である。

なにしろこの世の中には誘惑が多い。テレビ、ゲーム、パソコン、iPodiPad、飲み会、ギャンブル、スポーツetc,etc……。ただでさえ仕事に大半の時間が割かれているのに、やりたいこと、やるべきことはあまりにも多すぎる。本離れが本当に起きているのかどうか知らないが、起きていても不思議はない。むしろわれわれは、これだけ誘惑の多い中、「なぜそれでも私は読むのか」と問うべきなのかもしれない。

著者の息子ノアも、『グレート・ギャツビー』の魅力を説く父とのやりとりの最後に、こう言い放つ。「だから、もう、誰も本なんて読まないんだ」そして著者はその言葉に「隠していたものが露わになる衝撃」を感じ、気づくのだ。ノアが間違っているとは思えない、と自分が考えていることに。

本書はそんな著者が「読む意味」を考えるプロセスを通して、「なぜ自分は本を読むのか」を掘り下げる、ある種の自分探しの一冊となっている。なぜこんなことが「自分探し」になるのかといえば、言うまでもなく、読書家にとって「本」と「私」は不可分一体のものだからだ。すくなくとも私自身について言えば、本はまぎれもなく私の一部であり、私の外延長である。本を抜きにして自分という人間を語るなど、ありえない、考えられない。もちろん私は著者ほどの熱烈な読書家ではないが、それにしても、本書の内容は個人的にずいぶん共感できるものであった。

いろいろと示唆に富んだ指摘がみられるのだが、特に印象的だったのは、時間と読書の関係についての文章だった。ある研究によると、2008年のアメリカ人は平均すると一日10万5,000語、容量にして34ギガバイトの情報を消費しているという。その多くはメール、ツイッター、ブログやウェブサイトなどの「画面上の情報」だ。しかし問題は、こうした情報は断片的であり、瞬間的に読み取られ、大半は捨てられるものであるということだ。つまり膨大な情報の中で、われわれは「瞬間を身上とする生き方」(p.103)を生きるようになってしまっているのである。

ところが読書は違う。読書にはまとまった時間という余裕が必要なのだ。そもそも読書とはきわめて「時間的」な行為である。本と向き合う時間があり、本の中で物語が進行する時間がある。著者が言うとおり「本はいくつもの時間の中に存在する」のだ。

特に重要なのは「読書がわたしたちに集中を求めること」である。集中することにより、われわれは「内面生活と言う領域」に降りていくことができる。それは、表層的な情報の流れを追っているだけでは体験できない、自己の深部を見つめる行為であると言ってもよいだろう。だから著者は「電子書籍」を必ずしも排斥しない(キンドルのグラフィック・デザインについては手厳しいが)。「本を読むという行為はさまざまな形態のもとに存在し得る」(p.182)からだ。ただし、読書に集中できる環境をその機器が用意してくれることが前提だが……。

ということで、読書家にとってはいろいろ自己発見の多い一冊と思われる(まあ、本嫌いの人は、基本的にこの本を読もうとすら思わないだろうが)。ついでに言うなら、この「自治体職員の読書ノート」は、1日34ギガバイトの断片的な情報フローから、ストックとしての一冊の本へのショートカットを作りつづけているブログなのですよ。念のため。

愛蔵版 グレート・ギャツビー