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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1315冊目】源了圓『型』

型 (叢書 身体の思想)

型 (叢書 身体の思想)

市川猿之助は「伝統を受け継ぎながら、型を破って新たなものを作りだす。歌舞伎の歴史はその追究の繰り返しだった」と言った。坂東玉三郎は、父に「カタが出来るまでは他のことに手を出すな」と厳しく言われたが、おかげでカタが基礎になっていろんなことをやれるようになった、と語った。本書はこの二人のコトバを導きの糸として、「型」とはいったいなんぞや、という日本文化・芸能上の大問題に挑みかかった一冊だ。

そもそもこの二人の発言からすれば、型とは徹底的に身につけるものでもあり、同時に破っていくものであるらしい。いかにも奇妙で矛盾しているようでもあるが、いやいや、そこにこそその道の奥義が隠されているのだ。それが世阿弥能楽論であり、宮本武蔵柳生宗矩や沢庵、そして本書でクローズアップされている針谷夕雲らの剣法論である。本書はこの「能楽」「剣法」という文武二面の切り口で、型というものがその中でどのように扱われ、位置づけられてきたのかを明らかにしていく。

だいたい能楽論も剣法論も、一見矛盾しているようなことを平気で言う。例えば世阿弥は、怒りの身体表現にあっては心を柔らかく、幽玄の物まねには強い理の支えを要し、身を強く動かす時は足を静かに踏むべし、と言った。剣法論の嚆矢である宮本武蔵の『五輪書』もまた、心と身体の状態を逆にすること、「心は躰につれず、躰は心につれず」と言った。両者とも、いわば所作・身体運動と心の状態が一致しないことを重視したのだ。これを著者は「逆対応」と呼び、たいへん重視している。

こうした逆対応に至るための理路こそが「型」なのだ。型に沿って稽古をおこなうことで、矛盾を矛盾とせぬ境地に至ることができるというのだ。そして、驚くべきことにその究極は「身心一如」。つまり、カラダとココロを「相反する」状態に置くことで、実は両者を重ね合わせ、さらには人間と自然、自分と他人といったさまざまな区別をなくし、お互いがひとつのもの、重なり合ったものとなっていくのだ。日本の伝統文化に「二元論」はないのである。両者は合一であり、一如であり、そこに能楽や剣法、さらには茶や歌舞伎などの真髄がある。「型」の存在は、そこに至る道筋として、きわめて重要な意味をもっているのだ。

だから型は、単にそのカタチだけを守っていればよいというものではない。そこで出てくるのが「守・破・離」という超絶的な学習プロセスだ。最初から単に型を無視したのではダメである。最初は型を守らねばならない。しかし型をマスターすると、次はそれを壊したい、崩したいという欲が出てくる。ところが壊したいと思っているうちは、まだまだその型にとらわれている。その段階を超えて、型を「離れる」という境地に至ることで、その者は真の自由を獲得できるのである。

思えばこれは禅である。ひいては仏教思想の根幹である。しかしそれを経文や公案ではなく、身体を通したフィジカルな形で伝えるところに「型」のおもしろみがある。言い換えれば、「型」とは悟りの境地、世界認識の革命に「身体ごと」われわれを連れて行ってくれる、驚異のヴィーグルなのである。

「型」という切り口で、日本の芸能や武道の奥深さが分かる一冊。そこにあるものこそ、まさしく「日本」そのものなのではないだろうか。

風姿花伝 (岩波文庫) 五輪書 (岩波文庫)