自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1308冊目】有馬晋作『劇場型首長の戦略と功罪』

劇場型首長の戦略と功罪―地方分権時代に問われる議会

劇場型首長の戦略と功罪―地方分権時代に問われる議会

田中康夫東国原英夫橋下徹河村たかし竹原信一といった「劇場型首長」を比較分析し、それに対する処方箋を考える一冊。

著者は鹿児島県庁職員を経て、今は大学の先生をしておられるらしいが、さすがに実務的な感覚と研究者としての分析眼がきっちりと編み込まれ、バランスの取れた本となっている。この種のテーマだと、えてして一方的な賛同や批判になりやすいのだが、本書は「功罪」というタイトルどおり、比較的冷静に距離をとって考察を行っており、たいへん好感がもてた。

本書は前半で田中長野県知事、東国原宮崎県知事、橋下大阪府知事(肩書は本書にならって現職時。もっとも、橋下氏はすでに大阪市長だが)の3人を比較し、後半で河村名古屋市長、竹原阿久根市長を取り上げている。実はこの前半3人と後半2人は、単に「知事と市長」という違いだけではない。知事の3人はいずれも、元々「テレビ慣れ」したギョーカイ出身者であり、メディアの活用に長けているという共通点がある。一方、市長の2人は、それまでマスメディアに登場することはなかったが、当選後の行動によってメディアの耳目を集めたため、結果として劇場型首長として位置づけられることとなった。

そもそも「劇場型首長」の登場にはマスメディア、中でもテレビの存在が不可欠だった。本書によると、テレビの報道が政治に大きな影響を与える「テレポリティックス」は1993年の細川連立政権誕生と1994年の小選挙区比例代表制導入に始まった。その背景にあったのは、無党派層の急増や既成組織の解体であった。

なお、本書ではそこまで言及していないが、おそらくその前のソ連崩壊による左派勢力の衰退、日本における中間団体や地域コミュニティの崩壊も、こうした動向を後押ししたと考えるべきだろう。つまり、右派・左派それぞれの組織が弱体化し、アトム化した「個」が無党派層としてテレビの「煽り」を真に受けた刹那的な投票行動を示すようになったわけだ。このへんは、古くはトクヴィルが危惧し、最近では佐藤優氏が分析していたことである。

1995年には東京都の青島知事、大阪府の横山知事と「タレント知事」が話題になった。しかし、劇場型の政治を一気に推し進めたのは、言うまでもなく小泉首相である。小泉氏は「善悪二元論」「ワンフレーズ・ポリティクス」でテレビ向けの劇場型政治のスタイルを確立し、「国民の痛みを伴うため反対が出やすい『構造改革』という新自由主義の政策を、ポピュリズム型の劇場型政治を用いて進めようと」(p.25〜26)したのだった。

しかしこうした小泉型のスタイルは、その後の国政にはほとんど受け継がれず(そういうキャラクターは、議院内閣制のもとではなかなか出てきづらい)、むしろ地方で広まった。しかし、地方政治であるにもかかわらず、そのツールとしては「全国ネット」のメディアがメインに使われた。本書に出てくる「劇場型首長」の多くは、地方ローカルの番組よりも、むしろ全国レベルでの発信を中心に行うことで、個別の地方政治を動かそうとしてきたのだ。

実際、橋下大阪市長の言動は今でも全国レベルのトップニュースで取り上げられている。個々の地方ローカルの問題が、いったん全国区で話題になり、それが個々の地方にフィードバックしていくという不思議な「流れ」が、そこにはでき上がっている(だから、県民が知事の言動を全国ネットのニュースで知る、ということが頻繁に起きてくる)。

さて、こうした「劇場型首長」の存在は、さまざまな功罪を生んでいる。著者は「功」の面として
 ・住民の政治的関心上昇→改革促進や投票率アップが期待される
 ・首長人気を背景に長年の懸案や反対のある改革を進めやすくなる
の2点を挙げる一方、「罪」の面として
 ・問題の単純化・劇的化→正しい把握や解決を阻害するおそれがある
 ・頻繁なテレビ出演や「敵をつくって叩く」という手法で人気を集めるため、具体的な成果が出なかったり問題解決の方法を間違っていても「がんばっている・戦っている」というイメージをもたれやすい
 ・対決構図が固定化されたり、逆に批判をおそれる風土が醸成される
といった点を挙げている。まあ、ここまではおおむね妥当な指摘というべきだろう。しかし、問題は解決策のほうだ。著者は「メディアの自制」「議会のあり方」を提案するのだが、ここはいかにも苦しいと言わざるを得ない。。

メディアの自制については、今のテレビ番組の現状では期待するほうが無茶であるように思われる(もちろん、指摘すること自体は有意義であるが)。そして議会であるが、これについては、首長と議会の対立といった構図は、すでに古いものになりつつある。本書でも指摘されているように、今の「ハヤリ」は、首長が自身のシンパを議会に送り込み、地域政党として第一党を取ることである。議会は首長を押しとどめる役割から、今や翼賛体制となって首長を援護するようになってきているのだ。となると、行き着くところ、問題は首長や議員を選ぶ住民なのである……が、ここが一番の「問題」なのはご存知のとおり。

さて、ポピュリズム劇場型政治については、この読書ノートでも何度か取り上げてきたが、いやはや、これは相当の難問である。ひょっとすると、民主主義という枠組みの中では、これは絶対に解決できない問題なのではあるまいか。最近、ちょっとそんな気がしてきている。まだまだ結論は出ないけれども、このテーマは今後も少しずつ追いかけていきたい。

ちなみに、本書では上に挙げた5人を「劇場型首長」として並べているが、この括り方についても実はちょっと疑問がある。特に東国原宮崎県知事については、確かにマスメディアの活用には長けているが、私は「劇場型」であるとは思っていない。むしろやったことは地道なマニフェスト行政とメディアを使ったトップセールスであり、むしろ北川三重県知事や浅野宮城県知事のような「改革派知事」の系譜に属する人であると考えたい。むしろそれなら、石原都知事のほうが(時系列的にはちょっと早いが)典型的な「劇場型首長」ではないかと思うのだが……。