自治体職員の読書ノート

自治体職員です。仕事の関係上、福祉系が多めです。読書は全方位がモットー。

【1290冊目】加藤尚武『災害論』

災害論―安全性工学への疑問― (世界思想社現代哲学叢書)

災害論―安全性工学への疑問― (世界思想社現代哲学叢書)

例えば、ロシアン・ルーレットをやるとする。6分の1の確率で、あなたは死ぬ。6分の5の確率で、あなたは1億円もらえる。さて、あなたはこのゲームをやろうと思うだろうか。

たぶん、やろうとは思わない方が大半だろう。例えばこれが、弾が出る確率が「10分の1」で、もらえるお金が「10億円」であっても、結論は変わらないのではないだろうか。なぜなら、「取り返しのつかない代替不可能な損害」は、発生する確率がきわめて小さいとしても、それを許容できないのが人間の判断というものだからである。

原発事故をロシアン・ルーレットに喩えるのは不謹慎かもしれないが、基本的な考え方としては同じことだ。つまり、ここにあるのは、確率論やリスク論というものの本質的な「うさんくささ」の正体なのである。

確率論では普通「高い確率で発生する事故×小さな損害」と「低い確率で発生する事故×大きな損害」をイコールで結ぶ。そして、例えば「1年に一度の事故で1億円の損害」を許容するのなら、「100年に一度の事故で100億円の損害」も許容できるはずだ、と考えるのだ。しかし、このロジックが決定的におかしな点は、損害には確率の大小にかかわらず「人間として許容できないレベル」があるということを見過ごしていることである。「リスク・ゼロ」でなければ手を出してはならない領域というものが、この世の中には存在するのだ。

本書はこの問題を、さらにパースの偶然論を敷衍しつつ展開する。

そもそも個別の事例を考えれば、ある事故が起きるかどうかは「0%」(起きていない)か「100%」(起きている)しかありえない。

例えば日本対ブラジルのサッカー親善試合を開催し、その際に「ブラジルの勝つ確率が80%」と見込んで賭けを行ったとする。しかし、結果は「日本の勝ち」か「ブラジルの勝ち」しかありえない(ドローというのもあるが)。試合結果が「ブラジルの80%勝利」なんてことがあるはずがない(これを確率論の哲学では「単独事例問題」というらしい)。

したがって、このリクツを原発の安全管理に持ち込めば「被害額に関して確率が1以下0以上と想定する安全対策は間違いであると言わなければならない」(p.64)ということになる。しかし、現実にはそうなっていなかったのは、すでにみなさまご承知のとおりである。フクシマの現状は、確率論が現実に「敗北」した姿なのかもしれない。

他にも本書では、さまざまな方向性から原発の安全性(というか、危険性)についての考証が行われている。例えば、データの歴史的制約について。放射性廃棄物の処理施設は、1000年先までの安全性を見込まなければならない。しかし、その設計に用いられているデータが1000年にわたる耐用性をもっているかどうかとなると、誰もこれを検証できない。科学の進歩によって、今の科学の常識は次々に塗り替えられている。現時点で有効とされるデータも、1000年先までそれが通用する保証はまったくない(現代の科学技術が平安時代に作られたデータをもとに運用されていると考えれば、わかりやすい)。「われわれは、そのデータそのものの歴史的制約の中でしか安全の技術を確立することができない」(p.90)のだ。

また、「専門家」と「民主主義」の関係も考え直される必要がある。今回の原発事故では、パニックを恐れての「情報隠し」が行われ、結果として政府や専門家の言うことを誰も信用しなくなるという事態が起きた。

一般的に、技術の水準が高くなると専門家が「素人にはどうせ理解できない」「大衆に任せても合理的な判断はできない」と考え、社会の合意形成を無視して専門家が独走する危険性が出てくる。これを著者は「テクノ・ファシズム」と呼ぶ。

これに対して「技術情報を公開し、多くの国民が直接参加して危険が避けられる」(p.168)という考え方が「テクノ・ポピュリズム」である。しかしこの場合、国民投票や議会での決定が非科学的かつ不合理なものになるという(まさに「専門家」が恐れたとおりの)結果になる可能性がある。本書の事例でいえば「ヒトラーのクローンを作れば世界中でホロコーストが起きる」と言った類の、明らかに「間違った」結論が導かれるおそれがある。

ではどうすればよいのか、ということになるわけだが、この点に関して著者は「専門的に見て正しく、なおかつ公平な公共的判断を行う可能性を切り開くことが、現代社会のもっとも重要な課題である」(同頁)と言うにとどまっている。確かにとても難しい問題であり、ここで結論めいたものを出すべきではないのかもしれない。

ただ一つだけ確実と思われるのは、情報(数値などのデータ)は、たとえパニックを引き起こす危険があっても正確に提供する、ということではなかろうか。その理由は、今回の事故対応が招いた政府不信の根深さを思えば明らかであろう。データは、それがどんなにヤバイものであっても、一片たりとも隠してはならなかったのだ。

全体として、なかなか骨太で読み応えのある一冊だ。このご時世、原発のあり方を論じた本は数多いが、ここまで本質に切り込み、問題点を整理したものは少ないのではないだろうか。「原発推進派」の言説のあやしさ、うさんくささの根っこの部分が、本書を読むと見えてくる。アンチ・リスク論の一冊として、おススメ。

パース著作集―Peirce 1839‐1914 (1)