自治体職員の読書ノート

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【1289冊目】車谷長吉『鹽壷の匙』

塩壷の匙 (新潮文庫)

塩壷の匙 (新潮文庫)

表題作のほか「なんまんだあ絵」「白桃」「愚か者」「萬蔵の場合」「吃りの父が歌った軍歌」が収められているのだが、どの短編も、内容が少しずつ重なり、共鳴している。そこに書かれているのは、著者自身の生い立ちであり、体験である。瘴気が湧きだす毒の沼のような内面であり、憎悪であり、ゆがみである。

使われている言葉は平易ではあるが、裏側に、刃のようなするどさがあるのを感じる。しかもその刃は、外側ではなく、著者自身の内側に向かっているのだ。自分自身を、自分の言葉で斬り裂き、えぐっている。そこから流れ出る血の匂い、内臓が掻きまわされるような痛みが、この本には漂っている。

著者は「私小説」作家といわれる。本書に収められているのもまた「私小説」であるという。しかし、私小説というのがこんなに「こわい」ものだということを、私は初めて知った。そこには緩慢なものがない。甘えも、自己正当化も、憐憫もない。

著者自身はあとがきで「書くことはまた一つの狂気である」と書いた。発狂した父と自殺した叔父、冷酷な高利貸しの祖母に囲まれ、著者は書くという行為に狂気を預けることで、かろうじて正気を保てたというべきなのかもしれない。

また、「吃りの父が歌った軍歌」の中には、こういう言葉がある。

「将来自分に然るべき文章が書ける日が来ないにしても、私は原稿用紙二万六千枚、自分の中に空井戸を掘って見ようと決心していた」

興味深いのは、自分自身を掘りぬく空井戸の果てに見えてくるのが、人たる者すべてに相通ずる愚かしさであり、哀しさであるということ。私小説というと、作家自身の内部に小説世界がクローズされているような印象があるが、それでもそれをとことんまでつきつめると、それは「私」という臨界を突破するのだ。そこにいるのは、作家自身であり、私自身でもある。人間たるもののおぞましさ、その手触りを描き切ることこそが、あるいは私小説というものなのかもしれない。