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自治体職員の読書ノート

仕事は福祉系。読書は雑食性。業務連絡はnsa59871atmarkexcite.co.jpへどうぞ。

【1284冊目】菊谷和宏『「社会」の誕生』

地域・公共・共同体

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

「社会」の誕生 トクヴィル、デュルケーム、ベルクソンの社会思想史 (講談社選書メチエ)

ヨーロッパ、とりわけフランス社会の変遷と、その過程で現れた思想家トクヴィルデュルケームベルクソンの思想をベースに、「社会」の成り立ちとその本質を探る一冊。

まずトクヴィルの時代、フランス二月革命において神の摂理から独立した人間の世界としての『社会それ自体』が発見された」(p.35)。それはまた「人民」(peuple)の誕生でもあった。根本的な意味において平等な人間が、自ら人為的に社会をつくりうることが、革命という形をとって明らかになった。

次に、デュルケームにおいて、社会は「客観的な科学」として解釈されるようになった。社会科学の成立である。社会はそれ自体がひとつの観察・測定可能な「客体=モノ」として捉えられるものとされた。

そしてベルクソンにおいて、社会は人間の「生」の現れであるとされた。「『客観的な社会』とは、より根源的な事実である生の一つの『現れ』、生の限定の一つでしかない」(p.148)。社会は単なる「モノ」ではなく、人間の生・精神の現れとして捉えられるようになった。

ざっくりとまとめてしまえば、本書のストーリー・ラインは以上のようなものだ。トクヴィルデュルケームベルクソンの3人の思想を「社会」に着目して辿ることで「社会の発見」→「客体としての社会」→「生の現れとしての社会」という大きな流れが浮かび上がってくる、という仕掛けになっている。

その流れの行く末にある姿を描いたのが、「誕生した社会」と題された終章だ。そこでは、自分に自己意識があることは自覚できるが、他者を自己意識をもつ存在として理解することは「論理的な演繹ではない」としている。つまり、他人がロボットやゾンビやアンドロイド「ではない」ことを論理的に了解することは、絶対にできない(確かにそのとおりだ)。

言い換えれば、人が他人をもまた「人」として認めるという場合、そこには一つの「決断」「賭け」が存在する。「この限りにおいて他者への愛は、またしたがって我々が共に生き社会を成していることは、外的内的体験に根拠付けられていないという意味で、まったく非自然的・非物質的であり、非合理的であり、この意味で、人間社会は可感性を超え超越的であらざるをえないのだ」(p.180)

そして、こうした「賭け」の行為は、すなわち「他者を自由な存在として創造している」ことであり、こうした相互の絶え間ない創造行為のうちに人間社会が存在する、と著者は言うのである。いささか抽象的な感じもするが、それでもこの「賭け」がすなわち「信頼」のことである、と言われてみると、とたんにこの考え方がきわめて重大なものに思えてくる。なぜって、この指摘は、他人への信頼とは自分自身の「賭け」にすぎないとも言っているからだ。

なかなかドライな割り切り方であり、ちょっと西洋的な二元論にどっぷり浸かりすぎなのではないかとも思えるが、それでもこうやって割り切ってしまうことで、かえって社会のあり方の本質のようなものが浮き彫りになってくる。ちなみにベルクソン自身、精神・意識・生と物質・客体の二元論を徹底的に突きつめた思想家である。そのベルクソン思想を下敷きにしている以上、本書の論理展開も同じようになってくるのはやむをえないのだろう。

フランス史トクヴィルデュルケームベルクソンの思想を重ねるというユニークな方法はなかなか面白い。その結果として見えてくる人間社会の本質も、けっこう説得力がある。できれば今度は、西洋ばかりではなく東洋における「社会」を視野に入れつつ、議論を展開してほしい。老子の共同体的小国家論、江戸時代の庶民の社会、あるいはガンディー思想など、西洋とは大きく違う「社会」のあり方がそこにはあるように思うのだが。